多武峰妙楽寺本坊(本坊青蓮院宮跡) 
 〒633-0032  奈良県桜井市多武峰396-1 
 ℡0744-42-6033(三輪山平等寺)
 
 
 藤原鎌足公を祀る寺院として令和3年11月に150年ぶりに復興。禅の寺。第三週目の土曜日(毎月20日~26日ぐらい)午後2時から坐禅会です。当地は多武峰妙楽寺40箇寺の本坊跡に建てられた寺院であり、同桜井市の三輪山平等寺の出張所のお寺です。藤原鎌足公から数え56世の私も、当寺の復興に喜んでいます。
 かつて多武峰は達磨宗の大本山であり、妙楽寺多楽院には、曹洞宗大本山永平寺二世孤雲懐奘(こうんえじょう)禅師、三世徹通義介禅師、四世義演禅師がおられました。
 
釈迦像 真ん中に大織冠藤原鎌足公の御位牌 右に定慧様 左に不比等様
仏教の祖師方の御像(肖像画)
旧多武峰妙楽寺全景図
天井図
天女の図
多武峰妙楽寺再建之辰 聖霊院 大織冠 藤原鎌足公 冥福供養菩提
 

 

 多武峰妙楽寺

 

 創建 天武天皇7年 西暦678年

 開山 定慧(藤原鎌足長男、孝徳天皇御子)

 廃寺 明治2年2月

 復興 令和3年11月3日(本坊の本堂のみ復興)

 

 150年という長い間、多武峰妙楽寺は廃寺になっていましたが、令和3年11月3日に本坊が再建復興となりました。ところが、仏教を捨てた元多武峰妙楽寺を称する神社が、妙楽寺の寺号を使うな等、言っていたようなので、法律と道理に適っているかの正統性を記して置こうと思います。

 

 多武峰妙楽寺は、151年前の廃仏毀釈でその名を無くし、談山神社と改名しましたが、仏式で法事を執り行っていないため、談山神社は元妙楽寺であって、現妙楽寺ではありません。なぜなら、談山神社のどこにも、元妙楽寺を示す石塔や看板がないからです。要するに談山神社は妙楽寺のことなどどうでもよく、名前を捨ててしまっているのです。

 

 なので、談山神社は看板に元多武峰妙楽寺談山神社と掲げていれば、道心を疑われることはないでしょう。廃仏毀釈の折り、社僧は、名前を変えて神社になるか、取り壊しになるか、決断を迫られました。それで明治2年に談山神社にしたようです。当時の社僧はイデオロギーを曲げてさえも、妙楽寺の塔頭(たっちゅう)を守ることを優先してくださったのです。さることながら多武峰妙楽寺の名は廃(すた)り、忘れ去られてしまっています

 

 それで、三輪山平等寺を復興した住職が、50年の念願をかけて、多武峰妙楽寺本坊を復興したのですが、何であれば、藤原氏族の千田氏が坊主(ぼうしゅ)になりましょうか。それで丸く納めたらどうですかと、私は思うのですがね。実の次男なのですし。

 

 法律的には、すでに廃り無くなった寺の名前を使うことは何ら問題がありません

 

 151年前に一度無くなった多武峰妙楽寺を信仰することは信教の自由であり、現時点でも仏式で多武峰妙楽寺を称する寺院はここ一箇寺だけですから、寺の呼称に関して神社がしゃしゃり出てくるのは間違いなのです。

 

 談山神社は、元多武峰妙楽寺談山神社などと謳っていないわけですし、大神神社も元三輪山平等寺大神神社などと謳っていないわけです。妙楽寺の山号を使われては困るとか、歴史が曲がるなどと、仏式で祀ることを忘れて、降って湧いたような言葉を吐くこと自体がおかしいわけです。

 

 仏教徒としてみれば、神社側の人が「明治以前は寺だった」と言ってくださることは、個人的には嬉しいのですが、それを前面に出して欲しいところです。要するに元多武峰妙楽寺談山神社と、大きな表札を出すとか。神社側が多武峰妙楽寺を復興するとか。それぐらいの気持ちがあったら、住職もご苦労されてお堂を建てなかったことでしょう。しかし、完全に妙楽寺という名前が歴史から消されてきたわけですから。

 

 仏教を行じている現多武峰妙楽寺が、仏教を捨てた元多武峰妙楽寺側から、寺号を使うな等言われること事態がおかしいのだし、ぶっちゃけ神社は、多武峰妙楽寺の1200年の歴史にはあやかりたいが、根本、肝心の仏教を捨てているのだから、多武峰妙楽寺のことに口出しすることは、法律的にもまかりならないと知るべきですね。信仰の場として多武峰妙楽寺がここに現存しているのですから。

 

 まあ、それで、藤原氏に関係のある僧侶を出せと申されるならば、私は藤原氏族、藤原鎌足公の関係者なのです。

 

 念の為に、代々の親の名を書いて、このお話をする正統である根拠とさせていただきます。

 
 藤原

 一世藤原鎌足
大織冠 眞名中臣鎌子 時期 西暦614年生誕 母は大伴智仙娘 推古28年西暦615年聖徳太子は三経義疏を記される   
     


 二世 不比等(藤原鎌足次男 天智天皇御子) 妻蘇我媼子

媼子の系譜

・蘇我馬子 妻物部布都姫
 
・蘇我倉麻呂

・蘇我連子

・蘇我媼子(まさこ・おうなこ)
  三世 房前 不比等次男藤原北家祖

 不比等長男武智麻呂(南家祖)

 次男房前(北家祖)

 三男宇合(式家祖)

 鎌足の娘五百重娘と不比等との間の子が四男麻呂(京家祖) 遵って鎌足の子孫は京家。 


  四世 魚名 忠臣 (四世は特に仁に篤く天武真人一族を護った。)宇多の御代にようやく鎌足公の血統を藤原京家祖大原大刀自五百重娘流が繋ぐ。

  五世 藤成 伊勢守

  六世 豊澤 下野権守

  七世 村雄 下野大掾

  八世 藤原秀郷下野守・武蔵守・鎮守府将軍

 

  九世 千常

  十世 公脩

一一世 文行・佐藤祖

佐藤

一二世 佐藤脩行・信夫佐藤祖 佐藤近江丞

一三世 公輔 佐藤左衛門尉

十四世 師清

十五世 師文

一六世 師治

一七世 庄司基治(元治) 妻藤原清衡孫娘音羽御前源義経軍師 義経乃室(平氏河越重頼娘郷御前)(義経公静御前ト吉野ニテ別後奥州将軍ト成)側室(平時忠娘蕨姫)正妻(基治娘北ノ方・重基ノ母、浪の戸トモ。)

一八世 忠信 妻初音 佐藤四郎兵衛尉忠信 秀衡命二依兄継信ト共二義経平家追討軍随行

忠信兄は佐藤三郎継信 妻楓 

一九世 義忠 左衛門尉 義忠義字義経公依賜ウ後信隆ト改ム白石依更木へ後 娘婿二長子(基信、重基ト改ム・幼少名安居丸「源義経御子」ヲ迎エル)

二十世 重忠 左近大夫

二一世 重光 左京進

二二世 有信 太郎左衛門

二三世 忠直 三郎左衛門

二四世 時明 主計助

二五世 成光 左近忠

二六世 道成 小次郎

千田

二七世 千田隆義 小太郎 長子僧重義ノ進言二依、姓ヲ千田ト改ム 

二八世 利章 源九郎

二九世 量重 三郎

三十世 時廣 又次郎

三一世 時長 甚右エ門 応永三十二乙朱三月十日山ノ上屋敷二居住後山寺ト改ム

三二世 義貞 甚右エ門

三三世 徳右エ門

三四世 甚右エ門 徳之進

三五世 甚右エ門 惣助

三六世 甚右エ門 甚内

三七世 甚右エ門 時忠

三八世 甚右エ門 時義

三九世 甚右エ門 甚五郎

四十世 甚右エ門 宮内

四一世 甚吉

四二世 甚右エ門 市助

四三世 甚右エ門 惣治

四四世 甚右エ門 甚之亟

四五世 甚右エ門 定次

四六世 甚右エ門 佐吉

四七世 甚右エ門

四八世 甚右エ門 庄之助

四九世 甚右エ門

五十世 甚右エ門

五一世 甚右エ門 栄助妻馬洗場駒込多吉娘

五二世 トラ 甚之亟 夫臥牛平田治兵衛次男

五三世 寛次郎

五四世 甚太郎 旧更木村長 北上川に三号橋(昭和橋)を建造 妻二子千田与吉長女

五五世 政幸 妻甚太郎長女寛子 小山田津嶋神社吉田家第七子 金田へ

五六世 千田寛仁 政幸長女 幸子ト山形市七浦丸子氏忠男法名孝法次男

 

 

藤原鎌足公56世千田寛仁

電話番号090-9428-2272

 

藤原氏に関して詳しく聞きたいならばどうぞお気軽に

 

我々藤原氏族は何は無くとも必ず談山神社(御破裂山)を拝んで生活しています