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千田寛仁和尚 

 

2012-09-19 18:11:23
 

 「イザナギとイザナミの本当の悲しみ」


 2250年ほど前当時にはハンセン病が流行り多くの皇族一族が笠においても亡くなりました。飛騨高山の高天原から人々が移住してきた理由には、地震や天変地異などもさることながら、疫病の蔓延という困難があったのでした。イザナミもこれにかかり、病が厳しく愛する夫イザナギに見られたくない一身で里の飛騨すなわち高天原に帰ってゆくのです。イザナミとイザナギは別居するのですが、イザナギはイザナミ恋しさの余り、思い切って飛騨に行って彼女の休む岩倉を覗き見るのです。そこで変わり果てた妻の姿を見たところ、「わらわにはじをかかせたもうたな」と言って、イザナミの矛徒[警察]たちがイザナギを追ったのです。イザナギが逃げ切れなくなったその時、夫婦縁の仲介を果たすのが菊理姫です。宗侶で熱心に修行している僧ならばお気付きでしょう。菊理姫は龍天軸の白山妙理権現菩薩様です。菊理姫の御神紋が菊花紋であることは想像ができることでしょう。菊理姫は謎の言葉をふたりにささやいて、喧嘩を終わらせたといいます。

 わたしは「菊の花をたべて病を治しなさい」と言ったのだと感じています。しばらくイザナギはイザナミの看病をし続けたと思います。そしてイザナミがまさに亡くなろうとするとき、イザナミが「お前の国の人間を1日1000人殺してやる」というと、「それならば私は、1日1500人の産屋を建てよう」と苦しいときに冗談を言いあったのだと思えば、わたしは涙が止まらないのです。

 藤原氏が奈良時代のはじめに作った記紀には、醜い婆が追ってきたとか1500人の化け物が追ってきたと書いてあるわけです。尋常じゃない様子は、郷のみんながハンセン病に感染してただれたり、腫瘍ができていたということは現代人は考えることが出来ません。病にかかった人々は本能的に水清く、空気が薄く気圧、温度も低く、ウィルスが活動しにくくなる条件の高山へと向かったことでありましょう。[ウィルスの活発になる温度は35.8度]わたしは笠で昔何があったのか、それはどんな悲しい出来事だったのかを嗚咽しながら友達で師匠の細川甫氏より聞きました。友はわたしにすべてを伝えた翼年に亡くなりました。わたしが彼の話をまとめて日本皇系図を作成したのが2004年のことです。彼が卒去したことをふと笠に立ち寄った際4年前に聞いて彼の仏壇の前で号泣しました。私の泣き声とともに大雨が降り出しました。わたしの泣き声がやむと雨もぱたりとやみました。きっと先生の御霊が一緒に天地と感応道交してわたしとともに泣いたのだと思っています。

 神代の話は、直訳すればわかります。なぜこのことに気がつかなかったのでしょうか。

『ついにイザナミが自ら追って、坂の下までやってきました。それに驚いたイザナギは、大きな岩で坂を通れないようにふさいでしまいました。その岩をはさんで、イザナギは、イザナミに「離婚をしよう。」とおっしゃいました。すると、イザナミが、「愛しいあなたが、このようなことをされるのならば、わたしは一日にあなたの国の人間たちを千人殺してあげましょう。」
というと、イザナギは、「愛しい女神よ。あなたがそうするなら、わたしは、一日に千五百の産屋を建てましょう。」とおっしゃいました。こういうことから、人間は一日に千人が死に、千五百人が生まれてくるのです。』

 愛しいそなたと、わたしは別れたくはない。だけども子どもに感染したら大変であるから、もうわたしの手ではどうにもならない。涙を流しながら胸を痛めながら、この二人のやりとりが伝わってくる。愛しいのに愛しいのに、好きなのに好きなのに、なんでこんな惨たらしい病に遭遇してしまったのか。イザナミとイザナギは離婚をしたのではなく、永遠の別れこそがふたりを離したのです。

 飛騨の郷の追っ手から逃げる姿は、山葡萄[滋養強壮]を投げたり、竹の子[整腸排泄促進]を投げたりするのです。でも、効果はあまり無くて最後に桃[水分保持及び殺菌]を投げて状態は静まるのです。孝霊[記紀七代]の黒田の宮跡からもその娘倭迹迹日百襲媛命の墓の巻向からも桃の種が大量に見つかりましたよ。桃に解毒効果があることが、古代人は判っていましたからね。聖武天皇の妻光明皇后は「悲田院」という貧しい人に施しをする施設や、「施薬院」という医療施設を作っています。また、桃や梨の並木道を作って自由に食べてよいとしているのです。奈良時代もハンセン病が流行りました。


 左目からアマテラス、右目からツクヨミ、鼻からスサノオが産まれるというのは、西日本をアマテラスが治め、東日本をツクヨミが治め、壱岐、すなわち日本と朝鮮の防衛にスサノオが当った[域を展ばした]という比ゆであることが判りますね。スサノオはアフガニスタン地方まで旅をして、彼が治めた先々の地名にウルがついています。それは彼の先祖が辿ってきた歴史の道でもありました。イランからスサノオが帰ってくるときには、現地で友となった人々もともにやってくるのです。サヌが九州から三輪の邪馬台国入りを果たす途中、熊野で彼を先導したヤタガラスとは、伴って帰ってきたスサノオの友たちの子孫のことです。スサノオの生きた2220年の昔、日本から中東にかけてアジアでは、家の屋根は茅葺(かやぶき)で同じ建築様式であったことが、同じ文化圏であった証といっても言い過ぎではないです。


 さて、人間は、環境保全と医療がよっぽど切実なんだということが、次第と判ってきた現代です。人食いバクテリアや炭素菌ウィルス、B型C型の肝炎ウィルス、HIVエイズウィルスや子宮がんの原因とされるおもに不特定多数との性交渉が媒介するヒトパピローマウイルス、子宮頸がんは放っておくと子宮体がんとなります。ノロウィルス、ロタウィルス、鳥インフルエンザ、狂牛病、人間社会の心の乱れと比例するかのごとくに、どんどんと脅威が増えてきています。本当の祈りは、人と人が集い声を出し合い力を出し合い、身の回りから社会を良くするところにあり、今までむかしどんな悪行をしてきた人間であっても、たった今から生まれ変われるのです。後悔といい反省することは必ず大切なことでありますが、懺悔の意味も甲斐もなく、ただただ時間を潰すようであれば、それは時間の浪費でしかありません。接点がないのですからテコでも動きません。それぞれ、いまあるところ、いまいる立場からでいい、力を合わせ声を合わせ思いを合わせて、何もひるむことはない、恐れずに、良き人をさらに良くする黄金率、自分がして欲しいと思うことを相手にも考えて施し合い、和気藹々と、しっかり酵母の効かした甘酒飲んで、健康で、元気で、めいいっぱい長生きで、誰も彼も、見捨てずに、みんなでこころをひとつに、この今を決めていこうよと、わたしは強く思っているんです。 

 今でも白山神社の末社は全国参千余社。一番多いのではないでしょうか。イザナギとイザナミの別れは、日高見国と邪馬台国の別れでもありました。ことに、それは1200年前の日高見国と京都大和朝廷との38年戦争、そして800年前の奥州戦争平泉の陥落、源氏武田と平家長尾[上杉]の戦国時代まで続くのです。それを治めた方が、徳川家康公です。彼は源氏義家の三男義国の長男義重を祖とする上野源氏、その子義季が群馬県の得河に移り住んで得川を名乗りました。義季より8代目の有親は足利尊氏の時代の方、新田義貞が足利尊氏と対立して敗れたため、北朝側の新田一族駆逐作戦に遭い、故郷を捨てて遊行僧となって、「長阿弥」と名乗っては諸国を放浪しました。この時息子の親氏も同じく「徳阿弥」と名乗って行動をともにしています。つらい旅だったかと思い労います。やがて親子は三河の国に流れ着いて、酒井五郎左衛門に保護されました。、親氏は婿になって広親という子供をもうけました。この酒井家は後に徳川の四天王になる酒井家であり、酒井忠勝は広親から8代目の子孫です。しかし親氏の妻がはやくして亡くなったので、親氏は更に同所の松平太郎左衛門家の婿になり、泰親という子供をもうけます。家康公はこの泰親から8代目です。

 のちに家康公は豊臣秀吉公により三河から江戸に左遷されますが、家康公は江戸を絶好の本拠地として開拓していきます。江戸の守護神神田明神には、松平家の祖の親氏も遊行僧時代に立ち寄り、祈祷したことがあるということです。

 徳川家といえば三つ葵ですね。葵にはどんな意味があるでしょうか。わたしの身近では、大和郡山城の本多家菩提所、曹洞宗久松寺の寺紋が葵です。本多というのは徳川四天王の筆頭本多忠勝のことで、息子の忠政が彼の父を開基として建てたお寺です。本多忠政は姫路の白鷺城を建てた人です。本多という姓は、記紀に見る新羅系の王応神天皇の名前で誉田別尊のことです。善光寺が葵紋なのは、誉田別尊の関係を称する本多善光[最期の百済国皇子]が元豊浦寺本尊鋳造の阿弥陀三尊像を信州に運んだからです。応神は八幡と称されるとおり秦です。

 葵は美しい花をつけるものが多く、観賞用のハイビスカス、ムクゲ、フヨウ、タチアオイなどのほか、食用のオクラ、またワタやケナフなど繊維として利用されるものもあります。草本または木本。花は両性花で、5枚の花弁と雄蕊が基部で合生し、雄蕊どうし合着して筒状に。此花は熱帯地方に多く、日本の本土に本来自生するものは三浦半島以南の海岸に生えるハマボウのほか、南西諸島にさらに数種で、そのほか帰化植物が数種あります。葵という名は、元はフユアオイなどを指し、仰日の意味で、葉に向日性があるためといいます。家紋に使われる徳川家の三つ葉葵、下鴨神社の双葉葵などは別科であるウマノスズクサ科のフタバアオイの葉をデザインしたものです。

 中国の皇帝でも葉と幹は汁物で食べ、根は薬膳や薬として利用されてきたという葵。この冬葵子のお茶は腸の働きに随分と寄与するようです。奈良時代には日本へ渡来していたらしく、万葉集に葵を詠んだ歌があります。

 梨棗黍に粟つなしなつめあはぎ延ふ葛の後も逢はむとはくずあ葵花咲く


 冬葵子はヨーロッパ原産で世界各地に分散しているアオイ科の多年草、フユアオイの種子を薬用としています。現在冬葵子として市場に流通しているものの多くはアオイ科の一年草、イチビの種子です。この種子の本来の生薬名は「ケイジツ」である。冬葵子は漢方では、利水、通便、排尿障害、膀胱炎、浮腫、母乳の出の悪いときや乳腺がはれて痛むときにも用います。用法は煎じる、1日10~20グラムが目安です。

 秦河勝公の秦氏の御徴が葵紋で、信州の善光寺の紋がまず葵です。また、京都の上賀茂下賀茂(摂社が河合神社)の紋が葵で、名前の通り鴨族の紋、京都の前は葛城、葛城の前は出雲であることから、祭神の賀茂別雷神は賀茂大御神の子で、別けるというのは、サヌノミコト[記紀の初代神武天皇]が事代主の娘イスケヨリ姫と結婚して三輪邪馬台国の王となっていることから、サヌノミコトの義兄弟で、サヌノミコトは政治をし、別雷神は祭事を司ったということから別けるというわけです。九州からサヌノミコトが故郷に帰ってこなかったら、賀茂大御神が大和を継いでいたわけです。出雲は、大倭日高見国が三輪邪馬台国に対している孝元[記紀代8代]の時には日高見国に加勢しています。垂仁[記紀11代]の頃には遂に三輪邪馬台国を手中に収めてしまいます。三輪邪馬台国の千田[現在は地名檜原]の倉に納めて拝した秦の神宝[ヤタノ鏡、マナの壺、宝の宝玉、先祖伝来の杖]は、垂仁の娘倭姫によって、27箇所ともいわれる地を転々として志摩の千田で安んじ、伊勢外宮の地に祭られるに至るのです。外宮を豊受大神といいます。豊受大神自体は丹後の比沼麻奈為神社の御食津神のことです。豊とは崇神[記紀10代]の女帝卑弥呼のことです。後に、この秦、新羅系の氏族を源氏と称するようになるのは清和天皇の皇子源信の代からです。

 松平家康が、徳川に姓を変えたのは、征夷大将軍の地位が、源氏の嫡流にしか与えられないことから、家の安泰のためには源氏の姓が欲しいので、自らの先祖を遡って得川を称し、徳川と表したのが徳川姓のはじまりです。秦氏でもある家康公は葵紋を新たに、三つ葵をこしらえて徳川の紋としました。家康公は錬金術を会得しておられました。世の理を知り、日本の窓口をユダヤ新興国オランダにして、自らの作り上げた体制を安泰としたのです。これには参謀の天海僧正がアイデアでございます。家康公の遺言は、わが遺骸を立てたまま日光東照宮に薩摩島津家に向けて祭りなさいということでした。幕末、島津家は家康公の心配した予言通り、薩長同盟を結んで徳川政権を終わらせます。その薩長同盟を組ませたのが、坂本竜馬すなわち、グラバーとアーネストサトウから、日本の最初の英国代理に任命されたという意味での、本当の明治政府創始者であったのです。余りにも大きな権力を掌握していたがため、彼の新政府要領八策の折に西郷隆盛に提示した閣僚名簿には自身は書かれていませんでした。その代わりに彼の一族は、北海道に移住して国政の指示を行う立場となりました。現在の鳩山家もそのひとつです。

 思えば、秦、新羅からやって着た海神[綿津見三嶋の和邇氏]、それすなわち壱岐島に辿り着いた始皇帝の孫、皇女蘭。その子孫が2世紀卑弥呼になって崇神[記紀に言う]を支えたこと、中国よりたくさんの鏡を頂けた理由。6世紀の秦河勝公が聖徳太子を援護した理由、波斯[ペルシア]とのご縁。行基、鑑真、思託、智努王、鑑禎、聖武、良弁、物部氏道鏡、道忠、広智、円仁、最澄、空海、空也、源信、良忍、法然、慶円、栄西、貞慶、親鸞、明恵、一遍、叡尊、道元、忍性、日蓮、新羅と百済の闘いの歴史、宗教と民族の戦争をやめさせようとした織田信長公、楽市楽座、比叡山の焼き討ち、今までブログでささやいた話が、あなたの心の中でも走馬灯のように流れていることでしょう。真にお疲れ様でございました。

 今日完全な形で、日本の歴史の流れを解き明かすまでは、人々は歴史に無明の時代を過ごしてきたのです。また、完全な流れを判らなければ、世界の苦しみの根源が理解できないままに人々は暮らしたでありましょう。老婆心ながら、これを読んだあなたも歴史の証人となったのです。




 「長きに渡って人類を苦しめてきたハンセン病」について

 ハンセン病はライ菌が末梢神経細胞内に寄生し発症する感染症です。体の末梢神経が麻痺したり、皮膚がただれたような状態になるのが特徴です。特にその外見から、患者やその家族は差別の対象となり続けてしまいました。西暦1907年(明治40年)に公布された「癩予防ニ関スル件」が、患者の隔離政策の始まりで、西暦1931年(昭和6年)には、全患者を隔離の対象とした「癩予防法」が成立してしまいました。不幸にも患者は、当時の警察によって強制的に連行され、療養所に収容されてしまいました。しかし、そこではろくな治療は行われず、患者同士での看護・作業など病人扱いされなかったと長島愛生園石田長老から聞きました。また、結婚の条件として非合法な断種・堕胎なども行われたのです。西暦1941年(昭和16年)ハンセン病の特効薬プロミンが開発され、完治する病気へとなりました。医学会のたゆまぬ努力によって、ハンセン病を治す人類の彼岸が達成されたのです。

 しかし、西暦1953年(昭和28年)に「らい予防法」が、患者の強制隔離や外出制限規定など、それまでの基本原理を引き継いだまま成立してしまいます。西暦1956年(昭和31年)、ローマでの国際らい会議で、「すべての差別法は禁止されること」と、非難されたにもかかわらず、西暦1996(平成8年)「らい予防法廃止法」の成立まで人権侵害を放置し続けた国の責任は重いと言えます。

 もともとハンセン病は感染力の低い病気であり、日常生活で感染する可能性はほとんどないということが判っています。現在療養所に入所している人は、既に完治しているのですが、後遺症や高年齢のため入所しているというのがほとんどです。また感染したとしても、早期発見早期治療すれば完治し、後遺症が残ることもないです。ハンセン病は今や隔離の必要がありません。

 現代の日本財団[笹川家・現当主笹川陽平先生]は、公益収入をハンセン病で苦しんでいる人々の名誉の回復のために費やして布施しておられます。さまざまな慈善事業をなさっておられます。実兄丸子孝仁の奈宗連の活動もさることながら頭が下がります。

 岡山県のハンセン病療養所・長島愛生園と邑久光明園。 ここはもともと離れ小島で、国の誤った政策「らい予防法」によって、 望まずして感染した多くの患者が入れられた所です。 一九八八年日本財団の多くの寄付によってその島に橋が架けられ、療養所の人たちは人間としての権利を取り戻す一歩となりました。この橋は『人間回復の橋』と呼ばれています。

 


'$本物本当の歴史宰杜大日本国ユ-37312731千田寛仁のブログ
日本財団のマークは10月01日にリニューアルします。わたしの提案も参考になっているとのことです。素晴らしい日本の夜明けを楽しみにしています。


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追伸、ウイルスの活動を停止させるのは水素です。水素は牛乳を飲むことでも腸内で作られます。あらゆるウイルスによる疫病は、薬品を使用せずとも、水素によって封じ込むことが可能です。この説は、私が2011年に発案した自論でありますが、まさに必要とされる時が来ることでしょう。

 

おおやまとのくにのふみ 宇宙からの歴史物語

 

 2011年1月発表 
 説明者千田寛仁は、日本国内閣総理大臣安倍晋三師の先祖安倍宗任公の妹安倍有加の末裔。安倍の人材ですから安心してご覧下さい。 珪素「玄米、じゃが芋根菜類、わかめひじき海藻類」の摂取は身と心の修復に重要。 追伸。研究が進んで、よくないものを追い出すには、水素だと判明。牛乳は腸内で水素を発生します。その後周波数の研究をし、音作りをいたして居ります。
 
 坐禅(慈愛の意を持って思考感情を離しきること)に拠る身心修復について  禅=松果体活動=松果体=珪素原子(シリコンホール)=ブラックホール=データ収集 「無(ブラックホール、データ)・空(構成要素)・色(身体)」  珪素は土の中に多く存在する、土から栄養を摂って育った野菜や、玄米、きびなどの穀物類に多く含まれます。ひじきやわかめなどの海藻類にも珪素が含まれています。煮物のような料理方法が、珪素が溶けだし、吸収がよくなります。珪素を摂取し、慈愛の意を持って思考感情を離し、生活。   
 
 佛教(空)=禅=無=データ=珪素原子=シリコンホール=人間生命科学 (体感時間「空間滞在速度」=人間の周波数設定調整。
 
珪素「玄米、じゃが芋根菜類、わかめひじき海藻類」の摂取。
 
酵素「梨、御味噌汁」。
 
水素「牛乳から身体で作られる」、水素は必須元素。遺伝子DNA修復、遺伝子結合、細胞、ミトコンドリア、アミノ酸に必須。ウイルス排出、毒素の排出に必要な元素。
 
亜鉛「高野豆腐、ココア」、
 
リン「大豆・卵」の補充。
 
遺伝子染色体端子トナーの増幅。ソルフェジオ音源・アミノ酸結合ミスセンスの回避。
 
保湿成分、ヒアルロン酸「里芋」
 
エラスチン「鰹、牛肉、豚肉」
 
コラーゲン「鶏かわ」。
 
レシチン「大豆・卵」の補充。
 
ニコチンアミドモノヌクレオチド「乾燥舞茸・アボガド・落花生」の補充なども一つ。
 
幽玄、浄不浄。過去現在未来の三世の平等利益、共有、転写、等。)
 
 (身心修繕データ取得)
 珪素 玄米・じゃが芋根菜類、わかめひじき海藻類。
 
 (遺伝子結合必須元素)
水素 牛乳から身体で生成 
亜鉛 高野豆腐、ココア 
リン 豆腐、卵 
 
(調整) ビフィズス菌 
オリゴ糖 
 
(遺伝子染色体端子トナー、テロメア) 
酵素 御味噌 梨
 
 (保湿成分) 
ヒアルロン酸 里芋から生成 
エラスチン 鰹、牛、豚 コラーゲン 鶏かわ、ビタミンC 
 
(若返り成分)
ニコチンアミドモノヌクレオチド 乾燥舞茸、アボガド、落花生 
 
レスベラトロール 赤葡萄 
 
糖化回避 桜の花エキス 
 
(脳の6割は油であり、細胞膜は油) 
油 エゴマ油、亜麻仁油  
 
何よりも、念。祈り。 
 
国家安穏 萬邦和楽 子孫長久 諸災消除 所縁如意吉祥
 

大日本皇統命宰杜印