神古の話を御伽噺(おとぎばなし)にすれば、正確な場所と年代が解からなくなってしまいます。その結果、後世が路頭に迷い、全く独善的に各宗教がそれぞれの解釈で授業をはじめてしまっています。

これから、宗教とは戒を守ることの所以(ゆえん)、人間のあるべきようの実践にあることを明らかとしてゆきます。

日本においては、神道の研究を第一としなければ、宗教などやるべきではないことはお解かりの通りです。なぜなら他ごとは所詮他ごとでしかありません。第一の大事を見落として、異国あるいは新たな持論を宣揚するがゆえに、この国の風土と歴史、信条に適った教えの宗とはならないわけです。

あたかも、地面に蒔いた種が土地になじまないで、芽吹くことが無いことの如くに。

かといえ、現代神道を読んでみても、日本の核心を掴むこと等できません。そこで、神官の言、そして個人でも神道を求める人々の言に耳を傾け、これを学び、さらに研鑽を深めてきました。何が本当で、何が作り話かを整理し、まとめてきました。

ここで謎解きの一つの種明かしをいたします。謂えばこれは宗教の種あかしでありますから、逆にこれで宗教そのものができるさわりの話でありますが、あなたにこれをプレゼントします。

それは、あることに気づいてもらい、あるべきように、日本を正してもらいたいからです。正すというのが解かりにくいのだとしたら、洗濯という意味です。

近代の宰相の大臣であった白洲次郎氏、日本国憲法の創設と、トヨタソアラの設計に携わったことで有名な彼が最期に彼の家族に残した言葉に「葬式無用 戒名不用」があります。これに関して、次のことを並べた上に深く同意しています。

戒名は生前に受けるべきものであり、墓に彫るべきものではありません。本名と戒名を、家族が系図として残し永代管理するべきものであると考えています。

葬式に関しても、家族親族が話し合って故人の生前の意見を尊重しつつ行うものであり、最初に寺院ありきではないと考えます。だいたい布施を積まなければ行ってもらえないような葬式要らないですしね。布施と対価はイコールではないですしね。布施は心、対価は経済ですしね。多い少ないんじゃないんです。無くてもするもんです。

世間に言われるような坊主丸儲けだの生臭坊主だのは、そんなにカネばかり欲しいなら株式会社お寺、有限会社お寺、合同、合資、合弁会社お寺にでもしなさいよとも思われ。いやあ、むしろお寺語るのやめなさいよと思う。ご存知でしょうか、お寺がカネカネカネカネやってるからかして政府までもが「死亡消費税」なんて言い始めてます。そもそも現行の「相続税」ってなんでしょうか。考えたら国民を馬鹿にしているのかと腹がたってくるレベルです。さて逐一見つめてみたらおかしな法律や、おかしな制度で溢れかえってますよ。どうしたものでしょう。

強制的制約的なものは無用であり、不要です。であるのだから、どうするべきでしょうか、というありようを考え、吟味し、実践するのが人間です。日本人らしいありかたは、とはいえ、現代に適ったありかたで、であります。

日本における宗教、神代、神古、古代は、祝詞を読んで理解できるとおり、過去の過ちを起こさないための啓示であり、平等平和の未来への抱負、スローガンを謳っています。

そこに、そもそも日本に宗教が根付いた基本があります。過去の過ちについて、原因は宇宙的規模で語られ、彗星、龍や蛇を長尾の水神として表しています。軌道、衝突、雷、光、そして水、その森羅万象の流れを想像してご覧下さい。蛇は寿命を表すことは解るでしょう。では龍はご存知でしょうか。龍は生死そのものを表します。それは彗星。彗星が惑星をかすめる、あるいは衝突する、その後の火山活動あるいは、気温の大きな変化、これによって起こったいわゆる天変地異、飢饉飢餓に際して、古代に人間が起こした過ちを、二度と繰り返さない為の教えが、そもそもの日本神道です。当時の出来事、神武東征の真意を理解せねばなるまいでありましょう。

日本神道そのものが、教育である所以が、分散と合祀で訳が解からなくしたこと、明治の政策、廃仏毀釈後、明治4年の官社以下定額・神官職制等規則いわゆるの近代社格制度と、明治39年の神社合祀によって解からなくなり、単に天照大神を頂点とする明治近代天皇崇拝の国家神道と成り下がりました。それに加え300万人以上の戦死者と、国民の大多数への不幸せをもたらしました。無論それを選んだのは大日本帝国憲法下の日本国民でありました。

しかるに挑発や目先の利益に乗らない平常心を持った判断力こそ必要だと理解が出来ることでしょう。この判断力が鈍ったとき国運は危ういです。暑中や寒中、気持ちが動揺しやすい時期は特に要注意であり、坐禅(瞑想)をもって心を落ち着かせ、助け合うことならともかく進んで参加しようものの、無闇に踊らされて虚しく世間の風に同ずることが無いようにしなければなるまいと思いませんか。

もとより、学校教育に於いて青少年に歴史として教えるべき我が国の根本、大祓祝詞はまさしくその意味を失い、現在何か解からない「現代神社の経典」というままに文言読誦されています。

国民はこれでは真に豊かになるわけがなく、犯罪や紛争が鳴り止まないのには、日本国の宗教そのものが、現在、ないがしろになっているからであるといえます。

日本宗教を一言で言い表すとこれは、「平常心を保つ法」であるといえます。どのような危機、転機が訪れようとも、的確な判断で人命を守るという大本願あってのものです。

仏教がなぜ導入されたかということや、ユダヤキリスト教の受容に関するさわりは、すでに手記で語っている通りです。

ただ、昭和時代中期までは、国民を統理、管理するための檀家制度であったり、自治体の役所的な存在であった寺社教会も、現在は、マスメディアに押されてその役割を果たさずして終えようとしています。何の必要存在かが「国民一般」に理解できなくなった現在、寺離れのみならず、宗教離れが起こっています。本義を失うことは存在価値を失うことであります。

実際に教義を実践し、教義によって救世を行い、威光を示している宗教以外、然として残らないことでしょう。絢爛な建物に荘厳な甍の世界遺産とか国宝とか文化財が人々から血税を搾ってのさばります。本来何のために建てられたのか、孝に順じ、その経緯を誠意を持って世に伝え、日本総和合を唱えるものでなければ、要らないでしょう。それらの遺物のために、新たな建設が出来ないとか、景観を守るとか、新世代にしてみれば、古い時代の遺物こそ景観にふさわしく無いものだと主張されたら、どうするつもりなのか、かるがゆえ、真面目に、身命をかけて布教を行っていただきたいものです。閉じこもって国からの幣護でも受けていなさいと眠らされていた宗教家たちが日々外へ向けて正道を説いて回ったら、日本は一瞬で善い国になりますね。

今後はどう変容するか解からないが現在のマスメディアはご存知のとおり、日本国民を結束させないためのマインドコントロールの手段です。また日本人が目覚めて戦をされては困るという合衆国の考えあって、いろいろと工夫を凝らしている模様です。道義を背信するようなところは誉められたものではありません。エロスと背徳は茶の間から完全に別けなければならないです。それらは見たい人が見る娯楽でいいのだから、今現在の混沌とした状況は改善するべきであると思います。何でも分別は必要です。それをして全てがあって良いのだとしてはじめて無分別を尊いと言えます。不一不二。

「宗教の行方」の章、「未来への覚書」の章をご覧頂きましょう。

神道大祓からは人間の罪の条文が余りにも生々しいので削除されています。それゆえ単に善をなすことを「聞こし召せと」宣言する次第と為っているのです。西暦587年7月崇仏派の大臣蘇我馬子と敬神派の大連物部守屋の間に起こった丁未の乱(ていびのらん)以後、蘇我の戦勝によって飛鳥時代に国教が替わると仏教の十戒を善を示す法規として用いました。同じく飛鳥時代には高句麗の恵慈(僧)、百済の日羅(政治家・日系人)、恵聡(僧)が聖徳太子に仏教を伝授しました。奈良時代には唐より六回の渡航、本朝来朝に十年を費やして鑑真大和上が平城京へ来り東大寺に戒壇(授戒の場)を組んでいます。

個人が守るべき自戒の法を戒、集団の規則を律と申します。しかるにこの繋がりあって、人が(宗教が)行うべきことが、十戒(十善戒)を自ら実践することに集約されていることを再確認することが必要になります。宗教とは、他人から金銭を搾取することではないです。平常心、不動心を伝えることにあります。宗教は運営に必要分は布施によって集めることで、強制的貪りはいけません。また、無闇に教えは与えるものでもないです。求める人に与えることを旨とするべきです。そして最も重要が、教師は自ら行う、ということが大事となります。

過去を顧みて未来へと繋げることです。過去を知れば、この未来を知ります。


この章のまとめ

●日常と未来、未曾有の事態に備えて平常なる心で善を為すこと。悪を起こさせないということ。自らが実践する、生命を守る教えを宗教という。

●神道を研鑽し照合していくこと。日本古来の伝承言い伝え、ことの成り立ちを覚え、畏敬の念をもって天地を敬い人を愛す。

●神道の戒めを解いたものを導入されたのが仏教十戒(十善戒)。


十善戒 慈雲尊者のまとめ

不殺生(ふせっしょう) 故意に生き物を殺さない。
不偸盗(ふちゅうとう) 与えられていないものを自分のものとしない。
不邪淫(ふじゃいん) 不倫をしない。
不妄語(ふもうご) 嘘をつかない。
不綺語(ふきご) 中身の無い言葉を話さない。
不悪口(ふあっく) 乱暴な言葉を使わない。
不両舌(ふりょうぜつ) 他人を仲違いさせるようなことを言わない。
不慳貪(ふけんどん) 異常な欲を持たない。
不瞋恚(ふしんに) 異常な怒りを持たない。
不邪見(ふじゃけん) 仏法僧・三宝を否定する誤った見解を持たない。

かの幕末の士、山岡鉄舟氏に日本の釈迦と言わしめた江戸時代の高僧、慈雲尊者(上月平次郎氏)もまた、「知足」を大事とするように諭されました。


'$本物本当の歴史宰杜大日本国ユ-37312731千田寛仁のブログ
御袈裟・如法衣

聖徳太子の冠位十二階(冠の色彩):推古天皇十一年
官位名称 大徳 小徳 大仁 小仁 大礼 小礼 大信 小信 大義 小義 大智 小智
色彩名称 濃紫 薄紫 濃青 薄青 濃赤 薄赤 濃黄 薄黄 濃白 薄白 濃黒 薄黒



参照照合 ユダヤモーゼ キリスト教における十戒

正教会・プロテスタント(ルーテル教会以外)の場合

1.主が唯一の神であること
2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
3.神の名を徒らに取り上げてはならないこと
4.安息日を守ること
5.父母を敬うこと
6.殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
7.姦淫をしてはいけないこと
8.盗んではいけないこと
9.偽証してはいけないこと(嘘を言ってはならない)
10.隣人の家をむさぼってはいけないこと

1から4までは神と人との関係であり、5から10までは人と人に関する項目(同時に刑法の根幹)である。

ユダヤ教の安息日は土曜日であるが、キリスト教会ではイエスの復活の日である日曜日を主の日と呼び、日曜日を聖日として礼拝している。

カトリック教会・ルーテル教会の場合

わたしはあなたの主なる神である。
1.わたしのほかに神があってはならない。
2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
4.あなたの父母を敬え。
5.殺してはならない。
6.姦淫してはならない。
7.盗んではならない。
8.隣人に関して偽証してはならない。
9.隣人の妻を欲してはならない。
10.隣人の財産を欲してはならない。



※プロテスタントは偶像を拝さない、カトリックは像を拝します。
 善とは、世界地域によって異なるのではなく、同じ概念であることが解かります。日本が飛鳥奈良時代にあって仏教の十戒をもって国教としたという事実は物語ります。


〓文章は最期。ここまで
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大和の丑寅の高天原 丑(東北方位)笠山 寅(南西方位)葛城山
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