天皇以前の国王、葛城王朝蘇我氏

天皇制は、西暦607年にわれわれ日本の先祖が創造した制度です。ではなぜ天皇制が必要になったのでしょうか。それには、この島国の特質を考えてみましょう。

そもそもお分かりの通り、我が国は単一民族の国ではありません。顔立ちを見れば解かるように、様々な種族が入り混じっています。

我が国が極東アジア諸国の亡命先になった最大の理由には、日本が倭国と呼ばれた東北中心の時代5世紀に、安倍の先祖安東が倭王として極東のアジア圏を政治していた理由が挙げられます。

倭の五王で有名な日本の政治組織構造。西暦413年から西暦478年に九回、中国南朝の晋、宋国へ向けて朝献し、倭国王に冊封されています。

五王の制度は、邪馬台国の政治体制です。頂点に高倉王を立て、四人の王が補佐します。国を治めるのに五人の王が必要であったのです。讃、珍、済、興、武の倭の五王が居ました。

彼等は、王と謂えども民衆から選ばれた政治家であり、将軍です。そして、王政であるとはいえ、それぞれ失政すれば失脚するという民主政治上の王でした。

大倭の中心は、現在の土地感で言うところの北東北【青森・秋田・岩手】であり、軍馬の基地を【群馬】に置いていました。群馬は軍馬からきた名前です。

現在アメリカ合衆国から天然ガスが輸入されるように決りましたが、古くより、秋田の天然ガス等の化石燃料が生活や軍事に利用されてきたのも、倭国が昔も最先端をいっていたことを彷彿としますところです。

この安倍氏たる倭王安東の臣下に、蘇我氏が居ます。(倭王飛鳥遠征時に帰順・西日本では賊徒蝦夷の襲来としていますが事実は逆で大倭「安倍=安東」が西日本畿内王権を治めた。)蘇我氏は高句麗を経て倭国に渡来した元はユダヤ・波斯(ペルシア)の人々を母系に持つ人々で、物部と並んで西日本の政治を司ってきた氏族です。蘇我の出自が、高句麗から石川県、岐阜県、奈良へ進展するにも、三島(秦家)の所領であるがゆえに、出雲、それから奈良の葛城に駐屯し、3世紀前半に三輪山を治めて国執りを行ったのです。

爾来、三輪山の宮の名を、磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)と呼びます。現在の三輪山平等寺から天理教敷島大教会にいたる宮址を総じて敷島(しきしま)と言い、かつてこの奈良県中部は磯城郡と呼ばれていました。

シキとは瞳です。シマは国です。国の瞳、シキシマとは即ち国の中心という意味です。

やがて、後に言われる聖徳太子(豊聡耳)の欽明帝と呼ばれる祖父は磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)を営みました。この宮は現在の東が桜井水道局から西が桜井高校、北端が初瀬川にかかる平等寺の大向寺橋までありました。

西暦538年に百済国聖明王から亡命者と仏像を乗せた船がこの大向寺橋のあたりに漂着します。朝鮮半島、新羅が伽耶と呼び百済が加羅と呼んだ日本の統治府「任那」の運営は欽明帝の時に終了します。それから125年後の西暦663年には唐新羅連合軍と倭百連合軍が白村江にて衝突し、倭百連合軍は敗退。関係を絶ち、新羅に帰順し洛陽の仏を鋳造したのが奈良時代です。

百済王家は完全に倭国に編入し、百済王氏は中大兄皇女持統天皇の幣護を受け和氏を名乗りました。京都平安京を造営した、源平の祖たる桓武天皇の母君こそ和氏の高野新笠です。

欽明帝と蘇我稲目は義兄弟身分であり、女系への入彦を主とする古代の慣例を鑑みれば欽明帝自体が蘇我を妻とした大王なのでした。秦、和邇、物部、蘇我、藤原は別物ではないわけです。

欽明帝は女系をたどれば忍坂(大伴氏・九州熊本の大王家)。ペルシアの姫を妻とし、欽明帝の孫が豊聡耳、稲目の子が馬子です。この二人が、近畿地方に今で言う大和政権を確立しました。大和朝廷の創始は、西暦581年の隋の勃興に伴い、中国冊封体制に同じるか否かを東西の首脳で談じた時に設営した今風に言えば議会所です。

この談義は、中国大勢に順じるという形で決りました。倭王安東は位を蘇我馬子に与えて、馬子は僅か8歳の甥、豊聡耳に王位を冠しました。

この謂わば蘇我王朝(高句麗系)は、新しく台頭した後の藤原氏(百済系)にとって目の上のたんこぶでありました。高句麗と百済の建国を考えれば解かる話、高句麗は朱蒙(チュモン)が作り子息で異母兄の類利が継承、異母弟の沸流と温祚たちは南に向かって百済を建国。弟兄弟の兄沸流は疲れて可愛そうに亡くなりました。朝鮮南北は仲が良くなるはずが無かったのです。

だけども、今こそは、すべての遺恨を祓う時です。

物部は布都姫と馬子の結婚によって蘇我と融合し、曾孫の蘇我媼子が藤原不比等の妻となって、生まれた子達の子孫が1億2800万人の現代日本人です。


大化の改新は大化の元号に因んで後世が創造した造語です。



要点を書いておきましょう。

●日本の歴史は東北地方より始まった。
●倭王は東北人安倍氏であった。
●西日本における権威は和邇氏物部の後は蘇我氏にあった。
●蘇我氏が葛城王権である所以、蘇我氏は出雲もとより東北と縁があった。
第九代開化天皇の娘婿が第十代崇神天皇(葛城王族)
第九代開化天皇は大倭根子彦(東北の皇子)
●天皇は西暦607年に創設。爾来の歴史を払拭する為に作った。国史も整えた。
爾来のユダヤの因縁、インドの因縁、朝鮮の因縁、これらを継続することは国益に為らないと判断したため。安穏の確保。
●飛鳥時代以前は極東アジアの支配権は日本が持っていた。
●百済王家は日本に編入した。
●イザナミ・イザナギ夫妻は2250年程前の実在の人物。
●古事記は国の履歴書、日本書紀は国内用。
●ターニングポイントは西暦581年の隋の勃興。
●白村江の戦い以後朝鮮とは白を切り合わなければならなかった。
●大化の改新は当然にして造語



日本人簡易系図

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妻・イザナミ(飛騨高山出身)  夫・イザナギ(仙台多賀出身)



天之御中主神 別名を妙見尊星王
妙見=天狼星シリウス 記号θ
(皇命スメラミコト)
 岩手

高御産巣日神

神産巣日神

宇麻志阿斯訶備比古遅神

天之常立神

国狹槌尊

丑寅金神・国之常立神 ウシトラノコンジンクニトコタチノオオカミ (大本教、天津教、金光教、真光教、生長の家、等、復古神道が祀る神、天理教で天理王命と言ってるのがこの人、大倭の王、世の基礎を御創りになられた、法を作ったと考えられる)この大倭の王を中心に、後世の出雲の大已貴命(大黒)、大倭の少彦名命(恵比須)を脇持に祀る。

豊雲野神

宇比地爾神 妻・須比智爾神

角杙神 妻・活杙神

意富斗能地神 妻・大斗乃弁神

淤母陀琉神 妻・阿夜訶志古泥神

 1.♀イザナミ♂イザナギ 2250年程前(AD2013基準)
 2.♀天照大神大日留女牟千(父イザナギ) ♂八意思兼命(父高木神)
 3.♀栲幡千千姫(父高木神)  ♂天忍穂耳命(父八意思兼命)
 4.♀活玉依姫(父三島溝杭神) ♂天照国照彦天火明櫛玉饒速日命 皇祖天照大神
 5.♀玉櫛姫(父饒速日命)  ♂玉櫛入彦厳之事代主(八重事代主「出雲大国主子息」)
 6.♀伊須気余理姫(父八重事代主) ♂神倭伊波礼琵古命(初代神武天皇)カムヤマトイワレヒコ
 7.神沼河耳命(カンヌナカワミミ)(2代綏靖天皇)
 8.師木津日子玉手見命(シキツヒコタマテミ)(3代安寧天皇)
 9.大倭日子(金且)友命(オオヤマトヒコスキトモ)(4代懿徳天皇)
10.御真津日子訶恵志泥命(ミマツヒコカエシネ)(5代孝昭天皇)
11.大倭帯日子国押人命(ヤマトタラシヒコクニオシヒト)(6代孝安天皇)母・天足彦国押人命(孝昭第1皇子)の娘
12.大倭根子日子賦斗邇命(オオヤマトネコヒコフトニ) (7代孝霊天皇)
13.大倭根子日子国玖琉命(オオヤマトネコヒコクニクル) (8代孝元天皇) 
14.比古布都押之信命
15.屋主忍男武雄心命
16.武内宿禰(神功皇后の大臣) 
17.蘇我石川宿禰
18.蘇我満智
19.蘇我韓子 (母が韓人である通称名) 妻は高麗毘賣
20.蘇我高麗
21.蘇我稲目 妻波斯人、娘小姉君(穴穂部間人「豊聡耳の母」の母)
22.♀物部布都姫 ♂蘇我馬子(稲目の子息)
23.      蘇我倉麻呂(馬子の子息)
24.      蘇我連子(倉麻呂の子息)
25.♀蘇我媼子(父連子) ♂藤原不比等(百済王家・中大兄皇子の実子)

26.日本全国藤原氏族

不比等長男武智麻呂(南家祖)
次男房前(北家祖)
三男宇合(式家祖)
鎌足の娘五百重娘と不比等との間の子が四男麻呂(京家祖) 遵って鎌足の子孫は京家。

それぞれ、ここから60代程後身
即ち、皆、イザナミ・イザナギから90代程後身という話。