'本物の歴史宰杜

神功皇后様

武内宿禰(大臣)

 


 

 白村江の戦い(662年)で日百の連合軍が、唐・新羅連合軍に完敗してから、かつて自由に往来した兄弟姉妹の絆も忘れ、他人面しているが。

 百済王族は飛鳥時代に日本の軍船に乗って大和入り、すなわち亡命してきた。百済も新羅も高句麗も、日本人の故郷の一つ一つ。


第25代百済王・武寧王 461年・御生誕日本国加唐島。 (在位501-523年) 
純陀太子  在日1世 (日本に居住)
斯我君    在日2世
法師君    在日3世
雄蘇利紀君 在日4世
和史宇奈羅 帰化1世(和氏に改名して日本に帰化)武寧王より6代
和史粟勝   2世
和史浄足   3世
和史武助   4世
和史乙継   5世(娘が光仁天皇に嫁いだので高野姓を賜る)桓武天皇の母がたの祖父
高野朝臣新笠(武寧王より10世)が御産みになられたのが桓武天皇(第50代天皇:在位781-806年)] 父上は、光仁天皇。

日本人の多くが桓武天皇の血筋。これを忘れているだけ。


日本書紀には
武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、「百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の軍君昆伎王を倭国に亡命させる際、一婦人を与えて、途中で子が生まれれば送り返すように命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王である」としている。

 

蓋鹵王は自分こそ倭国に行きたかっただろうけれども、百済を守るために、王だから、せめて弟を倭国に逃がした。


桓武天皇は源氏平氏両方の祖であり、

源氏は、平家との確執から、自らの祖は「新羅」にあるとして系統を護持した。この新羅の御徴が日の丸。甲斐武田家の家宝「日章旗」新羅三郎義光の父頼義が後冷泉天皇(1045-1068年)から下賜された「日の丸御旗」であり、源氏の直系を示す旗。新羅直系の御徴といえる。盛岡に一時収めて武田家が日の丸を守ってきた。



日本東北(日高見)と新羅に境界が無いことが解る


新羅 始祖王 赫居世 紀元前69年 - 後4年
新羅 第2代王 南解王
昔新羅 第4代王 脱解王 自倭國東北至新羅
新羅皇子 天日矛
多遲摩母呂須玖
多遲摩斐泥
多遲摩比那良岐
多遅摩比多詞 比那良岐次男 兄が多遅摩毛理(三宅氏祖)
葛城高額比売命 夫息長宿禰王
息長帯比売命(神功皇后)



神功皇后 日高見(岩手を中心とする東日本)からの系譜

孝元天皇 第8代 ヤマトネコの称号
開化天皇 三輪山に立君 崇神天皇の父
彦坐王
山代之大筒木真若王
迦邇米雷王
息長宿禰王 妻葛城高額比売命
息長帯比売命(神功皇后)


桓武天皇は平安京をお造りになられた。



大倭日高見国


・天之御中主神 (皇命)2671年前にか 岩手より岐阜県飛騨高山へ高天原を遷都。

・高御産巣日神 (高皇産霊・タカミムスビとも書く) 医薬博士

・神産巣日神

・宇麻志阿斯訶備比古遅神

・天之常立神

・国狹槌尊

・国之常立神 (天理教で天理王命と言ってるのがこの人、大倭の王)

・豊雲野神

・宇比地爾神 妻・須比智爾神

・角杙神 妻・活杙神

・意富斗能地神 妻・大斗乃弁神

・淤母陀琉神 妻・阿夜訶志古泥神

・伊弉諾尊 妻・伊弉冊尊

豊葦原瑞穂国(首都奈良県桜井市三輪山の祈寅「笠」)へ大勢の御先祖様が引っ越してきた。


・思兼命(八意hati) 妻・天照大神大日留女牟千  弟を那古・須佐之男尊
おおひるめ、と呼んでいるが何かというと、瀬織津姫(太平洋から岩手県に降下した最初の神々の子孫の最高神、おおひるめが最後の瀬織津姫であり女系最後の天照)。天忍穂耳の母親が瀬織津姫だから、飛騨高山に先祖たちが住んだ時期は、短いものだったことが分かる。皇紀2671年は、飛騨からの計算になると考えられる。2671年前から2250年程前まで420年ほどを飛騨で暮らした。それ以前は岩手県を本拠としている。ところが、年代を導きだすのは容易ではない。現代の通論が古代にまで適合するかはわからない。そういうなかで、一説そうかなあ位にしておくといい。

※祓戸四神

 第一坐 瀬織津比売 (岩手県)に世界の悩みを陳情すること

 第二坐 速開都比売 (宮崎県)で解読し分析する

 第三坐 気吹戸主 (伊勢白山道)畿央で法を立てる

 第四坐 速佐須良比売 (笠)国に魂を戻し万邦和楽する

日本国最高機密 大祓祝詞 翻訳 意味 六月大祓祝詞 (中臣祝詞)
 

・天忍穂耳  妻・栲幡千千姫(高皇産霊尊孫、高木神女) 

 長髄彦登美明国(和邇氏)大物主 大和朝廷最初の地、三輪の主 (饒速日義兄)

・饒速日尊 (布留・十一面観世音菩薩・三輪明神大物主)妻・御炊屋姫(活玉依とも)(長髄彦の妹)
冠称 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命 大和建国の始祖王 最後の天照
また、義兄長髄彦の父を別称三島溝咋(みしまみぞくい)なぞという。したがって溝咋耳(みぞくいみみ)というのは長髄彦のこと。耳とは皇子(子孫・子息)のことだ。

・八重事代主(ことしろぬし)妻三島溝咋姫の娘(娘の夫饒速日の娘) 事代主は饒速日の養子である、事代主は大国主と神屋楯比売の子であり神武に政権を託した後には出雲を治める。
したがって冠称は玉櫛入彦厳之事代主尊。


三嶋溝咋の子が長髄彦。長髄彦の妹活玉依と饒速日が結婚し、生まれた玉櫛姫が事代主と結婚し、生まれた娘が神武と結婚する。女系で王統を繋いでいる。事代主が八重と冠されるのは、わが国のあらゆる権力を一身に帯びたという位である。天照国照彦天火明櫛玉饒速日命でさえ、「天照」「国照」の「王」「天火明」「櫛玉」「饒速日命」というように冠されていることから、八重ともなると、ここに出雲や九州の権力をも入れた。玉櫛入彦厳之事代主、玉櫛の家の養子に入った王(巌之)立派な事代主。これ凄く養子を褒めています。出雲の大国主も、この事代主を信望して、事代主が出雲の王になるなら出雲180人の子息も納得し国は治まるだろうと言ったぐらい。その褒められた事代主の娘。すなわち饒速日尊の孫娘が神武天皇の皇后となった。


・神武(じんむ)天皇 神日本磐余日子尊
 神武妻 比売多多良伊須気余理比売(いけすよりひめ)は饒速日尊の「孫娘」事代主の「娘」

 比売多多良伊須須気余理比売と申し上げるほど丁寧 それ程に偉大。


・綏靖(すいぜい)弘前市に留学

・安寧(あんねい)日高見国の政治家

・懿徳(いとく)大委日高見国の王

・孝昭(こうしょう)大委日高見国の王

・孝安(こうあん) 兄天足彦国押人命 埼玉県秩父市

・孝霊(こうれい) 日高見国から独立 

・孝元(こうげん) 異母子に倭迹迹日百襲媛命 桜井市三輪山に返り咲く

・開化(かいか)三輪山で政治

・崇神(すじん)第10代

・垂仁(すいにん)第11代

・景行(けいこう)第12代

・倭武命 日本武尊(ヤマトタケル) 景行3男 4男成務が第13代
ヤマトタケルは日高見に赴きその労いをもって
常陸国風土記では倭武天皇、阿波国風土記では倭健天皇と号される

・仲哀(ちゅうあい)第14代 倭武尊皇子

・神功(じんぐう)皇后第15代 仲哀天皇の皇后。明治時代に日本で最初にお札に選ばれた。
 1926年大正15年から第15代を神功皇后の子の応神天皇としている


 日本書紀によれば、神功皇后は201年から269年まで政事を執り行なった。夫の仲哀天皇の急死(200年)後、住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。

 どうして戦わずして、神功皇后は三韓を治めることが出来たのか。
 昔の血統主義が、ものを言った。

 建内大臣が行きました。高句麗の血統です。

 神功皇后が行きました。新羅の血統です。


 よく言われるのが、日本の軍隊、軍船が立派であったため勝てる相手ではないと判断して即座に降参したということですが、それだけではない。寧ろ、

 新羅に出征しただけで、芋弦式に百済と高句麗が随ったのは、新羅が秦の後裔で朝鮮半島の王統の中心であったことが考えられます。軍事力があったのは高句麗、権威があったのは新羅と考えましょうか。その新羅に彼女が王統であるのを納得せしめたのが月延石とか鎮懐石と言われるような何らかの石。渡海の際にお腹に当ててさらしを巻き、早産しないように冷ましたというのです。その石の一つは、秦や新羅の共通の宝玉であったことでしょう。

 後に蘇我と言われる孝元天皇系の武内宿禰が時の大臣(宿禰は大臣の古い呼称)であることを考えれば、神功皇后を頼りに新羅にまず赴いてから高句麗と話をつけたのだと解ります。倭国から話の出来る人が自らおもむいたということです。王自ら行ったのだと。神功皇后の夫仲哀天皇は日本では崇神天皇にはじまる中国王朝の流れ(側室に豊日弥呼が入ったから)であったことから、より説得力があったことでしょう。時の3韓の代表格が高句麗です。百済はもとより倭国と親交があったからなおさら治める必要はなかたっということです。(第二代から第十代の天皇は、中国から極東の政治を信託されていた。) 

 九州は豊葦原中国すなわち豊の国と呼ばれ、日弥呼の居られた場所であり、仲哀天皇は魏国と親密な関係にありしも無力であった。倭国での有力者は皇孫でかためられ、誰がなってもおかしくない状態で、仲哀天皇が亡くなられてもその後継者がいるということを証明するために神功皇后は出向いたということと、随行した武内宿禰のそれからは蘇我家(高麗)が和邇氏(新羅)に代わって台頭してくる予兆です。

 百済の藤原勢力、すなわち(斎明=皇極)難波の(孝徳)、中大兄すなわち天智天皇が台頭してきて、その子藤原不比等公が歴史の編纂を行うとき、また蘇我家から藤原家への政権交代が起こるのです。(藤原不比等公の奥さんは蘇我媼子様です。)なので実質は、旦那側の姓藤原で蘇我の政権が続いていて、さらに蘇我は嶋大臣蘇我馬子公のとき物部布都姫と結婚していて、その物部の祖はウマシマチ尊。饒速日大王の息子ですから。饒速日大王のお父さんが忍穂耳尊。尊の母上様が、天照大神です。

 後の時代桓武天皇は日本と朝鮮の関係する系統図や、歴史書から3韓と倭国は一緒の種族である旨をことさら破棄してしまいました。 日本と朝鮮が分離すると、朝鮮には勢いが無くなりましたが、明治政府の日韓併合で再興しました。


 日韓併合までの南朝鮮について


 「明治以前」の日本
 

 
 それから、日本民族というようなプロパカンダが行われたのはなぜかというと、亡命者の追われてきた歴史を封印することは当然でありながら、実際は国民に世界的な視野を与えないためというのが本音でしょう。朝鮮や中国、アジアや大陸、世界との縁を取り持った人が覇者になるのは必然。戦国時代には信長公や家康公が証明しています。



 ※三輪郷

 九州や青森、全国に三輪神社があり、三輪郷がある。何かというと、遷宮を意味し、三輪の子孫がそのまま土地の地名まで移したことが伺える。福岡県朝倉郡筑前町粟田においては、松峡八幡神社がある。「松峡宮」と云われる。この地は、朝倉郡三輪町栗田だったのに、平成の合併で三輪町は消えた。同じく夜須町も消えた。このように地名を勝手に変えることで土地縁を失うので気をつけなければいけない。



 ※神功の子応神天皇、その子仁徳天皇


 昔、応神天皇は大山守命と大鷦鷯尊、二人の皇子にたずねた。「お前たちは、子どもがかわいいと思うか」、二人は「お父さん勿論です」。

 応神「では、大きくなった子と、幼い子とではどっちだ」大山守命は、「大きくなった子ですよ」と答え、応神はむっとした顔になった。

 大鷦鷯尊は、応神の気持ちが分っていたから、「お父さん、まだまだ気を配らなければならない幼子です」。というと、

 応神は、「お前はわしの心がわかっとる」と満足顔であった。そして、菟道稚郎子皇子を太子にしようと心に決めた。

 
 応神天皇が亡くなられ、次の天皇には太子である菟道稚郎子皇子がなるべきなのに、「私はとてもまだまだ未熟で、天皇になれるような人物ではない。」という。

 「大鷦鷯尊、お兄さんは仁・孝に篤く、徳があって民から人望もある。お兄さんが天皇になるべきだ」と云って、皇位に就こうとしない。大鷦鷯尊は、

 「それはない、お父さんが菟道稚郎子皇子、弟のお前に決めたのだ。」そんな譲り合いが3年も続いた。

 それを知った兄の大山守命はおやじは弟ふたりを可愛がり兄のわたしを疎んじていたが、本来は兄である自分が天皇になるべきだとして兵を集めて太子を殺そうとした。それを知った大鷦鷯尊は、太子に情報を入れ、太子は船の船頭に扮して、宇治川を渡ろうとする大山守命を突き落としてあやめた。

 それでも皇位に就こうとしない菟道稚郎子皇子はついには自ら死んでしまったという。菟道の宮に尊はかけつけ、弟に蘇生の術をかけた。弟は一度は息を吹き返したが妹の八田皇女を尊にあずけると言い残すと、再び息を引き取った。

 尚、大鷦鷯尊と菟道稚郎子皇子は異母兄弟である。




 菟道の山の上に葬るとある。

 京都府宇治市菟道丸山に、菟道稚郎子皇子の御墓がある。





 仁徳天皇は人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の逸話に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。

 応神天皇は、皇統をめぐって人が争ったり、ことに成長した者がよくて劣っているものがわるいというような人のわがままをよく思わなかった。応神は八幡と称されるとおり生きた神であり、世は平等で弱き人のためにという精神が伺え、歴代最高の徳を持ったとされる「仁徳」の父親であった。

 


 神功皇后、卑弥呼との関係


 神功皇后 170年~269年

 卑弥呼 170年~248年

 あまりにも年代が重なる。 

 しかし、173年に新羅(356年のはずが173年に新羅があったとなっている)に使者を送り、交際を申し込んでいる人物(卑弥呼)がいる。

 代々の倭の女王のことをすべからく(卑弥呼)と言ったのではないか。



 新羅とは



 新羅は古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国という、が、実状は。

 秦政にしてみれば、国運のあやうきにより、わざと逃がしたのだろう。日本には秦国から3艘の大型船がきている。日本に来た徐福は山に登って都市計画を執り行った。秦政は、皇帝であったが、偉ぶる暴君ではなく、臣下を思う心あり、日本に着たのは三千人とも言われる。その御先祖様たちが、原住の日本の御先祖様たちと力を合わせて耶摩臺国を磐石とした。

 新羅の王族は姓が一定していない。初代赫居世(ヒョッコセ)居西干は朴、4代脱解(タレ)尼師今は昔、13代味鄒尼師今は金となっており、朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系がそれぞれ始祖説話を持っている

 建国には瓠公(ホゴン)と称される倭人(日本人)が関わっており、関わっておりというより倭人そのものであり、辰韓語では瓠のことを朴(パク)という。ここまで言うと、「秦」を通じて日本列島と朝鮮半島が一つであることが解る。しかるに中国と日本や朝鮮(韓国)の繋がりが見え、「秦」を通じて中東世界(ユダヤ)との結びつきを感じる。詳しくは私のプロフィールを読めばだいたい解る。誰もが誰もみんな先祖で命が繋がっている。13世紀末に三国遺事書かれた檀君という朝鮮初代王に関しては、紀元前2333年に建国などと、どうしても中国に歴史の長さで勝ちたい情熱はわかる。王倹という神が居たというのは認めるが年代は定かではない。神武天皇の紀元2671年とどっこい。紀元2671年に関しては、現代の人寿の計算では計り知れない。耶摩臺国からの日本は、4500年程と考えられる。9000年前の漆器が函館で発見されたり1万2000年程前の稲作の痕跡が鹿児島で発見されたり、1万6500年前の縄文土器が青森で発見されたり、はたまた、中国で1万8000年前の土器が発見されたり、そればっかりは現在ではよくわからないのである。人類の歴史は一体どこから始まったのだろうというのは北アメリカなのだろう、そしてパンゲヤがわかれてアフリカで再出発となっただろう、それから荒国や牟国が覇権をきそって、その後日本列島から文明は再出発したのだろう。だろうの世界。

 但し、朝鮮民族は蛇を象徴するヤコブの5男Danの子孫であることは解っているので、紀元前1812年がアブラハムの誕生年とすると、ヤコブは彼の孫だから、50年後の人物として紀元前1762年ぐらいの人ダンをして始祖とするなら朝鮮の歴史は大陸をまたにかけ3773年ぐらいということになる。

 ちなみに日本の支配層はおおよそが、ヤコブの7男、ガドである。それゆえか日本を表すときだいたい「7」と呼ぶ。また、太平洋をさすとき「9」を表すのは余分な知識。

 せっかくだから、もう一度イスラエルの12子を紹介しよう

アブラハム(妻はサラ)
イサク(妻はリベカ)
ヤコブ(イスラエルと冠される)(妻はラケルとレア:ヤコブには二人の正妻がいる)
イスラエルの十二支族と呼ばれるヤコブの息子たち
1.ルベン
2.シメオン
3.レビ
4.ユダ
5.ダン
6.ナフタリ
7.ガド
8.アシェル
9.イッサカル
10.ゼブルン

11.ヨセフ
ヨセフの息子たち
1.エフライム
2.マナセ

12.ベニヤミン

ラケルの墓がベツレヘムにある。


 イスラエルの歴史が、中国へ新羅へ。汗を介して高句麗へ。また百済へ。日本へ。インドのカピラ国に関しては、ここだけの話、加羅へ。この加羅は新羅では伽耶と呼ばれ、伽耶族の本当の名は釈迦族。そこが任那(みまな)と言って日本領だった。


 君たちは皇族と庶民に二元化して皇統について考える機会を失っているが、私の日記を見て思い出したでしょう。これが本当の大日本史。まず今の天皇制は明治政府が作った。しかし、考えようであり、誰が天皇になろうと大差ないことを考えれば、皇統というものは維持されている。但し血統となると怯むだろうが、誰でもどこかで先祖が繋がっているその間違いの無さを考えれば、現在生きていることが答えであることに人は気付くだろう。それぞれが先祖の威徳によって「生き延びている」これが現実。今までここまで聡明(歴史に関してだけはな)に話してくれる逸材もいなかったから嘘をつき続けてられただろうが、

 
 日本の皇統を考えるときは、物凄い努力で国体を維持している。かといって、あなたもわたしも日本の子であり、自信が無い人には朝鮮まで開けよう、それでも解らなければ中国も、インドも、中東まで開いて見せようと思う。

 わたしはあなたの自信を取り戻してもらうために、和邇系、蘇我系、藤原系、中東系、の多岐に及ぶ代々の父の名前を書いている。これを遡ってあなたの家系に接続するだけで系図が完成する。もちろんポピュラーなところであり、系図屋さんごめんなさいね、というより私がお金を頂かなくてはならないレベルである。


 文部科学省でさえ、私の文献を引用している。京都大学の教授先生が、千田君教えてよと言ってくるレベルの話。



 みんな否応無しに、命の絆で繋がっている。

 だから、ここまで日本を知っているわたしが言う。命の世界に国など無い。ただ、ルールは守ろうね。ということです。ウルルン島の向こうの韓国の竹島と日本の竹島を間違えて引っ込みがつかなくなったのではないだろうか。それか本当に日本を「憎み≒愛し」日本列島に接近したくてたまらないのではないか。それが本音だろ。愛憎なのだよやっていることは。解き放てその心。由緒ある新羅の末裔がみっともない。兄弟、同胞、わかっているのか。


 さて、話もどって。神功皇后に随行した建内宿禰(たけのうちすくね)は紀・巨勢・平群・葛城・蘇我氏などの中央諸豪族の祖で、何を言わんとするところ、彼が高句麗の王統。帰還した神功皇后の畿内入りを守った建振熊命(たけふるくまのみこと)は新羅の末裔。
 建内宿禰の始祖は孝元であるが、彼の父親の号をよく見ると孝霊。読者は解るだろうが、これ「高麗」の駄洒落であり、東北を中心とした日本のはじまり、大和以前大倭(おおやまと)の時代には、朝鮮とか日本とかいう枠組みがなかったことをあんに物語っている。


 大倭王が、日本を統治し、高麗を統治していた。

 おかしなはなし

 高麗(朝鮮)に言わせて見れば、高麗王が日本をも統治していた。となる。

 だから、国なんてことを考え出したのは、飛鳥時代に百済王族が亡命してきて、「大陸とは関係ありません」と知らを切ったところからです。

 百済人に言わせるとようするに、「ああ、もう中国も新羅も恐い、大和なら安心だ・・・・と思ったら東日本は新羅や高句麗や中国とツーカーやないか。恐ろしい。そうや、東北を蝦夷ということにして大和軍に守ってもらおう」

 ということで営まれた大本営が『朝廷』飛鳥雷丘東の原に造営

 藤原が、母系に百済の王統がながれ、蘇我が母系に高句麗の王統がながれる。もとから新羅の王統が入ってきていて、日本最古の王統日高見の血統を神功皇后代に繋いでいるから、これ、日本も朝鮮も血をわけた兄弟姉妹国であることがわかる。

 また中国、秦と日本は=イコールである。朝鮮をかいして入ってきた竈ではなく、日本は秦の本家であることは読者はもう知っているだろうから何度も言わないです。

 筆者のプロフィールを見れば、世界そのものが繋がっていることが簡単に解る。この日記を見れば、どこが源氏でどこが平家でという細かいことも解る。なので無難な線で、「すべてについている」どこかひとつをひいきにせずに、関係のあるすべてを讃える。


 争いの無能を知るし、日本は歴史のルツボ。

 日本の「漢字」を共通語として用いましょう。

 結論、日本は秦や新羅の国であったのが、途中から百済を受け入れ、東西のいくさの状態に入ったということで、秦や新羅が古い。大倭日高見国よりその子孫が大陸に渡り、帰ってきたのがその子供たち。なお、秦とは朝鮮を通じて入ってきた竈(かまど)ではなく、中国は初代王秦非子からの本家のこと。

 百済人が東北を蝦夷と言い蔑視した理由にはそういう深い理由があるわけです。

 今日、日本と言うこの日本とは、岩手県北上市水乞山を神山とする「大倭日高見国」のことであり、後の豊葦原瑞穂国三輪山からの歴史だけではない。それらは深く、神道を習い、大祓祝詞を修することでわかるようになります。

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 日本は単一民族ではない。世界の拠りどころ。

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 ~桓武考~   日本人の御先祖様の苦労をねぎらう


 桓武さんは弟早良(さがら)さんの忠告を聞かずに平安京を作り

 中国、新羅、岩手、からの守りに徹していた。

 

 しかしながら、公卿たちが東北に対して非常におそれを抱いていたため

 京都は

 坂上田村麻呂将軍を岩手に大軍を送るも破れず

 和平条約に来た

 岩手の将軍(アテルイ)を枚方の牧野坂で斬刑にした。

 

 後に源義仲公が、いやけをさした京都の公卿たちの二枚舌がわかる。

 

 武士は仁義を大事にするが、公卿たちにはそれがなかった。

 

 決着がつかないから坂上将軍が、講和しよう、京都に行けば戦はおさまるといい

 

 アテルイ将軍と500人の人々が都ゆさんで遥々246里の道のりを歩いてきた。

 

 ①アテルイと田村麻呂はすでに親睦していた。 ②京都の公卿はこれを知らない。 ③公卿たちはアテルイを討った。

 

 

 

 高野新笠(高原に新たな都)という名前の母上。

 百済王家の末裔。
 
 正妻ひとりにしておけばいいものを

 結果子どもたちは二つの流派に分かれ

 父系新羅を称える源氏と

 母系百済を称える平家に分離し

 子孫はその争いに巻き込まれた

 南都を源氏の居城とし

 北都(京都)を平家の居城とし

 源氏 と 平家

 さいはて

 源氏武田と平家長尾で

 争った

 桓武さんは 弟早良(さがら)の意見を聴いて「倭京」の造営に勤めていれば

 子孫は争うことなく、「倭京」は大アジアの首都になっていたものを。


 だがしかし。それを成功させたのが徳川家(松平家)だ。

 豊臣家によって左遷された地が江戸。

 徳川家は本字得川であり、元は新田家。

 寛永通宝は江戸深川千田新田(大工町)の銭座において鋳造された。

 江戸ともいえば

 今の皇居、その江戸城も

 もとはといえば

 太田道灌様の築城。

 太田道灌様、

 扇谷上杉家家宰太田資清(道真)の子で、

 家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した人物。

 
 道灌様に気付きを与えた句

 兼明親王の御製

 七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞあやしき

 人間は 見せかけではダメだ 内容が無ければ 内容は意(こころ)だ こころで相手を労い癒す

 そういう がなければ いくら立派に見せても すっからかん という意味。 

 あやしき、というのは、悲しいというのと、こころないものとはつきあうなという意味合いです。


西暦2011年8月8日