昭和12年(1937年)7月29日、中国の北京郊外にある通州という町で、日本人を標的にした残虐な虐殺事件が起きました。
(通州事件)
なぜ、何の罪のない民間の日本人が、残虐な方法で強姦され虐殺されなければならなかったのでしょうか?
当時の通州には、塘沽(タンクー)協定により、昭和10年(1935年)から蒋介石国民党から独立した自治政府が設立されていました。(冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ))
塘沽(タンクー)協定とは、満州国との国境付近で、国民党軍と日本軍との間で小競り合いが頻発したので、国境付近に非武装地帯を設けることで、昭和8年(1933年)5月に合意した停戦協定になります。
その自治政府の長官として、殷汝耕(いんじゅこう)が就任しました。自治政府には中国人5800名の保安隊が設けられて、日本の支那駐屯軍から厳しい軍事教練を受けていました。また、天津に駐屯している日本陸軍から武器貸与を受け、さらに、将校には日本の士官学校並の教育も行われました。
このような状況から、冀東防共自治政府は日本の傀儡政権であると言われていました。
北京郊外にある通州という町は、この自治政府の管理下にあり、日本人居留民も約385人生活していました。そして、日本軍により訓練を受けた保安隊により治安が維持されていて、日本人居留民たちも保安隊を信頼していました。
それまで親日だった通州の人たちですが、次第に空気が変わってきました。中でも朝鮮人が、中国人に対して日本人の悪口を言いふらすようになりました。
そして、支那人の日本人に対する風当たりが強くなり、「日本人出て行け!、日本人殺せ!、日本人は人間ではない!」などと奇声をあげながら、町中を練り歩く北京大学などの学生たちが頻発に現れるようになりました。
昭和12年7月7日、北京郊外の盧溝橋にて、日本陸軍と国民党軍の間で戦闘が起きました。(盧溝橋事件、七七事変)
すぐに現場の部隊が停戦協定を結んだので、事件は収束していくかと思われましたが、その後も、小競り合いが続いていったので、日本陸軍は増援部隊を北京に派遣しました。
通州地区に駐屯していた日本陸軍も天津地区に移動しました。通州にいる居留民の防備が手薄になるという懸念がありましたが、保安隊がいるので大丈夫だろうということで、通州から離れました。
日本陸軍が天津に移動した後、昭和12年7月29日夜中、通州城の門が閉められました。城の中にいた日本人居留民の多くはまだ寝ていましたが、突然、支那兵たちが日本人地区に襲撃。婦女子や老人たちが次々に虐殺されていきました。
逃れようとした日本人たちは、城の出入り口まで行きましたが、門がしまっていて外に逃れることができずに、皆殺しになってしまいました。
この日本人襲撃事件は一体誰が起こしたのでしょうか?
事件が起きた当初、日本陸軍は、その首謀者を通州を統治していた、冀東(きとう)防共自治政府の殷汝耕(いん・じょこう)長官であると思いこみ逮捕しました。
しかし、殷汝耕(いん・じょこう)長官は事件に無関係だとわかり、その後、玄洋社の頭山満の計らいもあり助命されました。
実は、この事件の実行犯は、冀東自治政府の保安隊でした。
そして、その保安隊を買収したのは国民党軍であり、また、同じく実行犯である北京大学などの学生達を扇動したのは中共だったのです。
保安隊の総隊長である張慶余(ちょう・けいよ)は、通州事件の3週間前の盧溝橋事件で、日本陸軍と交戦した国民党軍の29軍の軍長の宗晢元(そう・てつげん)と共に、秘密結社哥老会のメンバーでした。
張慶余(ちょう・けいよ)は、張硯田と宗晢元(そう・てつげん)と共に、以前から日本打倒の密約を交わしていたのです。
関東軍(日本陸軍)が友軍として認識していた冀東保安隊でしたが、その総隊長である張慶余(ちょう・けいよ)は初めから、国民党軍の宗晢元(そう・てつげん)と共に、日本打倒の機会を伺っていたのです。
関東軍(日本陸軍)は、自治政府の保安隊長が敵の国民党軍と繋がっているなどとは、全く予想していませんでした。それほどまでに、張慶余(ちょう・けいよ)の、日本陸軍に対して忠誠心があるように見せる演技が、素晴らしかったのでしょう。
この事件の後、コミンテルンのスパイである尾崎秀実(ほつみ)は、同じくゾルゲ機関のスパイとして活動していたの川合貞吉に、次のように述べています。
「あれは君、支那民族の怒りの姿だよ、眠れる獅子が目を覚ました姿だ。冀東地域へ入り込んでいる日本人にろくな奴はいない。
淫売、ゴロツキ、事件屋、そんな連中が兵隊の威力を借りて威張り散らし、悪辣極まることをして、土着民を縛り虐待しているんだ。そういう政策を推し進めている日本の民度の低さに問題があるんだ。」と。
尾崎秀実は、同じくソ連スパイのゾルゲの元で、当時の大日本帝国を破壊滅亡するため、近衛政権の中枢に入り込み、裏で誘導していきました。
その尾崎秀実は、通州事件で残虐極まりないテロの被害にあった日本人に対して、殺されて当然であり、そもそもろくなやつらではない、日本の民度に問題がある、などと語っているのです。
とても日本人では行えないような、残酷な大虐殺を行った支那人に対して、尾崎は非難するのではなく弁護していました。
この通州事件により、日本国民は「支那人を懲らしめろ!」と世論が沸騰し、日本陸軍は、世論に押される形で蒋介石率いる国民党軍との泥沼の戦争へと突き進んでいきました。
もしかしたら、蒋介石の国民党軍が日本軍と戦争をするために裏で仕組んだこの罠に、尾崎も絡んでいたのかもしれません。
この虐殺事件を裏で仕組んだのは蒋介石と中共でした。
「天津文史資料選集」第21集(天津人民政治協商会議天津市委員会文史資料研究委員会編)に収録されている、「冀東保安隊通県反正始末記」(張慶余 執筆)から引用させていただきます。
これは通州事件の主犯格の張慶余(ちょう・けいよ)自ら書いた始末記になります。
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蒋介石政権と日冦(日本政府)とで結んだ、塘沽(タンクー)協定の後、冀東は非武装地帯とされた。
次に蒋介石政権は河北省の首席・于学忠(う・がくちゅう)に密命を下し、特殊警察総隊を作り冀東非武装地帯に入れ、警備させた。
于学忠(う・がくちゅう)は、私、張慶余(ちょう・けいよ)と張硯田を選出し、第一総隊長と第二総隊長に任命した。
その営長と連長も第51軍から選び、訓練を開始した。
1935年に冀東地区に移動し駐屯した。そして、冀東防共自治政府を殷汝耕(いん・じょこう)が樹立させ、名称を冀東保安隊に改称しして、偽政権の統括となったのである。
私の長男、張玉珩(ちょう・ぎょくこう)は、私が偽冀東政権で有力な責任者の席に付いているという話を聞き、
私が国家に反したと判断し、恥ずべき父親だ、私と親子関係を切るとまで言いだし、その言葉を新聞にのせた。
妻の于徳三も速やかに反正の方法を講じるべきで、さもなければ親友郷党から問題視されるから逃げよう、と言いだした。
そこで、私は極秘裏に妻に告げたのである。「私の意思を今すぐにはっきりさせるのは適当でない。けれども、近い将来には必ず明らかになる。息子に伝えて欲しい。耐えてまち、お前の父親のこれからの行動を見ていろ」と。
1935年、宗晢元(そう・てつげん)が冀東政務委員会に就任して間も幕のことだった。
私と張硯田は極秘のうちに張樹声(ちょう・じゅせい)(国民党軍の将軍で哥老会の会員)に頼んで、「宗晢元を直接紹介してもらいたい。できれば宗に従って、抗日戦線に加わりたい」と伝えた。
張樹声は快諾し、すぐに手配してくれた。宗は非常に喜び、私たちと会いたがってくれたが、日冦(日本軍)や漢奸(漢民族の裏切者のこと)どもの目につくのを極度に警戒し、天津の旧イギリス疎開の17号路にある宗の自宅で私と張硯田と会談した。
その席で宗は「元々お二方は祖国を熱愛し、また最近は俊傑(張樹声のあざ名)兄が、お二方が力を合わせて抗日したいと言われていると伝えてくれました。
私は、ここに国民党政府を代表して心から歓迎の意を表します。
現在は、にせ(傀儡)冀東政権問題があるので、お二方に置かれては注意を怠らないようにしていただきたい。
すなわち、宗哲元は決して国を売りません。お二方には今日以降私に外で合わないように注意を払い、合わせて立場を固く守り、決して動揺することのないようにお願いしたい。」
と語った。宗は続けて「軍隊を訓練させて強化し、準備を整えて日冦の侵略を防ごうではないか」と付け加えた。
言い終えた宗は、準備させた一万元を、私たちそれぞれに手渡した。
私たちは宗に向かって感謝の言葉を述べ、次のように言った。
「私たち二人は今後、心を一つにして宗委員長に従い、国家の為に尽くします。」
私たちは宗と硬い握手を交わして別れたのでだった。のちに保安隊が通県(通州のこと)で義挙(起義)したのは、この日の会談の約束を果たした結果である。
盧溝橋事件発生後、宗哲元が北平(北京)にいなかったため、私は腹心の劉春台(りゅう・しゅんだい)(ニセ(傀儡)冀東教導訓練所副署長)を密かに北平(北京)に向かわせ、河北省首席・馮治安(ひょう・ちあん)に行動指針をどうするか伺った。
馮治安は劉に次のように告げました。
「今の所、我が軍は日軍同様まだ戦略が決まっていない。張隊長に伝えて欲しいのは、しばらく軽挙を控えることです。我が軍と日軍が開戦する時を待って、その時は、張隊長に不意をついて通州で義挙する一方、兵を分けて豊台を側面から攻撃し、挟撃の効果を収めようではないか」
さらに劉春台にこう付け加えた。
「腹心の人物を登用派遣し、第29軍参謀長の張越亭と普段からいい関係を維持するといい」
劉春台は、馮治安に別れを告げるとすぐに張越亭に面会を求め、良い関係を作った。張越亭もすぐに私と張硯田の保安隊を戦闘序列に加えたのであった。
この時、日冦の通県に駐在する特務機関長、細木繁中佐は、第29軍が通県に侵攻するのを防ぐため、特に私と張硯田を招集して、軍事会議を開いた。
会議は通州の防衛についてで、彼は、5千分の1の地図を前に私たちに地図を基にした、防衛計画を作るように命じた。
私は立ち上がってこう述べた。
「私たち二人は、軍人出身です。学問もなく、難しい軍用地図はよく分からない。でも、我々には自信があります。通州をしっかり守り抜くことができますし、皇軍とともに戦えば、第29軍をつき崩すことは可能です。
ただ、目の前にある兵力は少なくこのままではダメです。私の考えを申し上げれば、あちこちに駐留させている各所の保安隊を通州に集中させてから命令を待って、それから作戦会議をさらに開いた方が良いと思うが、いかがですか」
細木繁はもっともだと頷き、その案はすぐに許可された。加えて、彼は我々を忠実で頼りになると信じたらしく、各地にバラバラで生活している日僑を、保護の目的で通州に集中させることに決定した。
私は、すぐに張硯田と手分けして、所轄のあちこちに分駐している部隊を通県(通州)に集めるよう指示した。
私は、日冦(日本軍)が大挙して南苑を侵略し、併せて飛行機を飛ばして北平(北京)周辺を爆撃するのを見て、戦機はいよいよ近いと知った。
このまま座視しているわけにはいかなくなり、遂に、7月28日夜、通県で義挙すると決定した。
直ちに私は兵を出し、通州城の城門を封鎖し、市内の交通を断ち、電信局や無線台を占拠させた。合わせてニセ(傀儡)冀東政府を包囲し、漢奸、殷汝耕を拘束させた。
私は、同時に西倉に兵を向かわせ、特務機関長、細木を捕らえた。細木は銃声が四方から響くのを聞いて異変を察知、特務の十数人を率いて抵抗した。
細木は片手に銃を持ち、片手で我が軍の将兵を指差して大声でわめいた。
「お前たちは速やかに保安総隊へ帰れ。お前たちは生き残れないぞ」細木は話が終わらないうちに、我が軍の乱れ打ちにより射殺された。
残りの特務の連中は形成不利と考え、速やかに特務機関内に身を返し、門を閉じて死守しようとした。
我が軍は大砲と機銃で猛烈に掃射し、集中掃討したのだった。激戦は7月29日午前9時ごろに至り、日冦(日本軍)は、一部の逃亡者を除き、頑固に抵抗したものはことごとく殲滅した。
日冦(日本軍)は、爆撃機24機を派遣して、我が通県起義軍に対して爆撃を繰り返し、7時間の長きに達した。
私の命を奉じて戦ってきた蘇連章の団は、対空装備がないので全く支えきれず、ここに置いて軍服を脱ぎ城を捨てて逃げた。(中国兵は逃亡する際、必ず軍服を脱いで民間人のふりをして逃げます。)
張硯田と蘇連章らの相次ぐ逃亡は、この通県反正に対する影響上、極めて不都合だった。程なく私は、蒋介石から電話で招かれ、南京へ向かった。
蒋介石は私にこう語りかけた。
「あなたはこの度、通州で蜂起し、破れて未だに栄誉を得ていないが落胆することはない。損失は私が整理して軍政部から補充するから、しばらく休んで静養し、その後再び戦線に復帰してもらいたい」
さらに、蒋介石は、
「あなたは殷汝耕を捉えたのに、なぜ殺さなかったのか」
と問うので、私は、
「当時はまさに逆賊の殷汝耕をさらし首にして見せしめにし、民の怒りを鎮め、はっきりさせようと銃殺を考えました。
けれど、もっと良いのは北平(北京)の宗哲元委員長のところまで護送し、中央の法律で処罰してもらうのが妥当だ、とニセ冀東教導訓練所副所長の劉春台が阻んだのです。
と答えた。
蒋介石は良いとも悪いとも言わずに、私を旅館に帰って休ませ、明日、何応欽部長のところへ行き、再度協議しようと言われた。
1938年、改めて私は第91軍副軍長に派遣されたが、私は病気を理由に断り、遂に職につかなかった。
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以上、引用終わり。
通州事件の首謀者である、張慶余(ちょう・けいよ)は冀東保安隊第一隊長とて、国民党軍29軍の攻撃から日本人居留民を保護することを任務としていました。
しかし、張慶余は、その国民党軍第29軍の宗哲元と裏で繋がっており、日本人虐殺のための活動資金までもらっていたのです。
冀東政府を樹立した殷汝耕は元々、国民党軍にいた人であり、日本傀儡(かいらい)政権と言われた冀東(きとう)自治政府を樹立した時、蒋介石は裏切り者として逮捕状を出していました。
蒋介石は張慶余に対し、
「あなたは殷汝耕を捉えたのに、なぜ殺さなかったのか」
と問いただしたのは、そういった背景があったからです。
いつも私たちを守ってくれている保安隊の人たちを信じて生活していた、日本人たち。その保安隊が突然日本人を皆殺しにしろと、いって夜中に襲ってきたのです。
どれほど驚いたことでしょう。そして、見るも残酷な方法で無抵抗な女子供たちを、強姦、略奪、殺人を犯し、それをシナ人たちは楽しんでいたのです。
その首謀者である張慶余は、通州事件の2年前から敵の国民党軍と内通して、日本人殺戮のために準備していたのです。
細木特務機関長をはじめ日本人居留民たちは、まさか、張慶余が敵のスパイであったとは全く知らずにいました。
しかも事件後、張慶余は蒋介石から呼び出され、
「通州で蜂起し、破れて未だに栄誉を得ていないが落胆することはない。…その後再び戦線に復帰してもらいたい」
と言われました。
つまり、通州事件を裏で画策していたのは、蒋介石だったのです。
また、「盧溝橋事件風雲編」(中国人民大学出版社刊)が盧溝橋事件から50年たった1987年に出版されました。
これは、抗日戦争50年記念事業として、中国の歴史書として中国共産党が編纂したものになります。
この中で、通州事件についても次のように触れられています。
1935年、宗哲元と張慶余、張硯田との秘密会談について書かれた後、
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第29軍の宗哲元は、冀東保安隊を差別することなく、努力して味方として団結させた。そして、のちに保安隊が通州で”反正”したのは、まさにこの時の約束と直接的な関係があったのだ。
冀東保安隊と29軍は、ずっと極秘のうちに行き来し続けたのである。
冀東保安隊は日(本)軍、敵警察、憲兵と日鮮(当時、朝鮮人は日本人でした)浪人500人を殺害し、河北郡民の抗日闘志を示した。
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500人というのは中国が得意とする水増しです。
実際の殺害された人数は250余人となります。
保安隊の蜂起を主導した張慶余(ちょう・けいよ)は、この事件の後、国民党軍で出世しました。
戦後、蒋介石も中共も、通州事件について謝罪していません。また、日本政府も戦後、一切この事件について外交問題にしていません。
どんなに南京大虐殺について中共から、歴史認識を改めるように謝罪要求されてもです。
この中で「反正」という言葉が出てきますが、これは「反省」ではありません。間違いを改め正しい状態に戻すという意味です。
この場合は、日本軍が大陸に侵略しているという間違った状態を改め、日本の傀儡政権である冀東(きとう)政府を倒し、日本人を抹殺すること(正しい状態に戻す)、という意味で使われています。
無抵抗な女性(妊婦)や子供達(赤ん坊)、多数の日本人居留民を、残虐な方法で強姦、略奪、殺人を犯した通州事件。
蒋介石や中共にとって、これは「反正」であり、輝かしい抗日戦であります。彼らにとって、この事件は日本に謝罪することでは全くないのです。
この事件当時、通州に住んでいた佐々木てん氏は、事件の様子を目撃し、後日、次のように語りました。
(「天皇様が泣いてござった」佐賀県因通寺の住職 調寛雅師著 1997年発行)
(これより先、精神衛生管理は自己責任でお願いします。)
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私は沈さんに従ってその年の3月に支那に渡りました。長い船旅でしたが、しばらく天津で仕事をしておりました。
そのうち片言混じりではあったけれど支那語もわかるようになってまいりました時に、沈さんが通州へいくというのです。
通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いて、支那人もとてもいい人が多いから行くというので、私は沈さんに従って通州に行くことにしたのです。
それは昭和9年の初めごろだったのです。
沈さんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。
だから、買う人にとってはとても便利なんです。
沈に頼んでおけばなんでも手に入るということから、商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。
沈さんも北門のあたりまで行って、日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。
この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。私たちは、沈さんと一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。
この通州の町にはその当時、冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)がありました。
これは殷汝耕(いん じょこう)さんという人が作った政府で、軍隊も一万人以上いたそうです。
そして日本に対しては非常に親日的だったので、私も、日本人であるということに誇りを持っていたのです。
ところが、昭和11年の春も終わろうとしていた時、沈さんが私に、これから日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故かと尋ねますと、支那と日本は戦争をする、その時私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまり付き合ってはいけないと申すのです。
私は心の中に不満が一杯だったけど、沈さんに逆らうことはできません。
それが昭和11年の終わり頃になると、こうした支那人たちの日本に日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。
それは、支那のあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるようにに思われました。
そしてこの頃(昭和12年)になると、一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、支那の国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら、行進をするのです。
それが7月になると「日本皆殺し」「日本人は人間じゃない」「人間でない日本人は殺してしまえ」というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。
鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。
昭和12年7月29日の朝、まだ辺りが薄暗い時でした。突然、私は沈さんに激しく起こされました。大変なことが起こったようだ。
早く外に出ようというので、私は風呂敷包み二つを持って外に飛び出しました。日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。8時をすぎて9時近くになって、銃声はあまり聞こえないようになったので、これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心している時です。
誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。
そのうち、誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。
何かぞーっとする気分になりましたが、恐ろしいものは見たいというのが人間の感情です。
私は沈さんの手を引いて日本人居留区の方へ走りました。
日本人居留区に近づくと何か一種異様な匂いがして来ました。
何か生臭い匂いがするのです。
血の匂いです。
沢山の支那人が道路の傍に立っております。
そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も混じっています。
いやその学生達は保安隊の兵隊と一緒になっているのです。
そのうち、日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。15歳から16歳と思われる色の白い娘さんでした。
その娘さんを引きだして来たのは、学生でした。
その娘さんは恐怖のため顔が引きつっております。
体はブルブルと震えておりました。
その娘さんを引き出して来た学生は何か猫がネズミをとった時のような嬉しそうな顔をしておりました。
そして、その着ている服をいきなりバリバリと破ったのです。
薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。
すると、雪のように白い肌があらわになってまいりました。
娘さんが、何か一生懸命この学生に言っております。
しかし、学生はニヤニヤと笑うだけで娘さんの言うことに耳を傾けようとはしません。
娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。
学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。
そして下着を取ってしまいました。
娘さんは「助けて!」と叫びました。
とその時です。
一人の日本人の男性がパアッと飛び出してきました。
そしてこの娘さんの上に覆いかぶさるように身を投げたのです。
恐らくこの娘さんのお父さんだったのでしょう。
すると、保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。
何かグシャっと言うような音が聞こえたように思えます。
頭が破られたのです。
でもまだこの男の人は娘さんの身体の上から離れようとしません。
保安隊の兵隊が何か言いながらこの男の人を引き離しました。
娘さんの顔にはこのお父さんであろう人の血が一杯流れておりました。
保安隊の兵隊は再び銃で頭を殴りつけました。
パーっと辺り一面に何かが飛び散りました。
恐らくこの男の脳漿(のうしょう)だったろうと思われます。
そして2、3人の兵隊と2、3人の学生がこの男の人の体を蹴りつけたり踏みつけたりしていました。
服が破れます。肌が出ます。血が流れます。そんなこと御構い無しに踏んだり蹴ったりし続けています。
そのうち保安隊の一人が、銃につけた剣で腹のあたりを突き刺しました。
血がパーっと飛び散ります。
その血は横に気を失ったように倒されている娘さんの身体の上にも飛び散ったのです。
腹を突き刺しただけではまだ、足らないと思ったのでしょうか?
今度は、胸のあたりを突き刺します。
また腹をつきます。
胸をつきます。
たくさんの支那人が見るけど「うーん」とも「わー」とも言いません。
ただ、見ているだけです。この屍体を3メートル程離れたところま
で、丸太棒を転がすように蹴転がした兵隊と学生たちは、この気を失っていると思われる娘さんのところにやってまいりました。
この娘さんはすでに全裸になされております。
そして、恐怖のために動くことができないのです。
その娘さんのところまで来ると、下肢を大きく広げました。
そして凌辱を始めようとするのです。
これはもう人間のすることとは言えません。
ところが娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。
どうしても凌辱がうまくいかないのです。
すると三人ほどの学生が広げられるだけこの下肢を広げるのです。
そして保安隊が持っている銃を持って来て、その銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突っ込むのです。
何人もの支那人がいるのに止めようともしなければ、声をだす人もおりません。
すると、ぎゃーと言う悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。
保安隊の兵隊がニタニタ笑いながら、この娘さんの陰部を抉り取っているのです。
私の身体はガタガタと音を立てるほど震えました。
この兵隊は今度は腹を縦に割くのです。
それから、剣で首を切り落としたのです。
その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです。
日本人居留区に行くともっともっと残虐な姿を見せつけられました。
ほとんどの日本人はすでに殺されているようでしたが、学生や兵隊達はまるで狂った牛のように日本人を探し続けているのです。
あちらの方で「日本人がいたぞ」という大声で叫ぶものがいるとそちらの方に学生や兵隊達がわーっと押し寄せていきます。
私も沈さんに抱き抱えられながらそちらに行って見ると、日本人の男の人たちが5、6名兵隊達の前に立たされています。
そして、一人また一人と日本人の男の人が連れられてきます。
十名程になったかと思うと兵隊達が針金を持ってきて、右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。
そうして、今度は銃につける剣を取り出すと、その男の人の掌をグサッと突き刺して、穴を開けようとするのです。
悪魔でもこんな無残なことはしないのではないかと思いますが、支那の学生や兵隊達はそれ平気でやるのです。
集められた十人ほどの日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。
そして60歳を超えたと思われる老人もいるのです。
この10名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、掌のところを銃剣で抉り取った学生や兵隊たちは、今度は大きな針金を持ってきてその掌の中を通すのです。
10人の男の人が数珠つなぎにされたのです。
学生と兵隊達この日本人の男の人たちの下着を全部取ってしまったのです。
そしてもちろん裸足にしております。
その中で一人の学生が青竜刀を持っておりましたが、20歳前後と思われる男のところに行くと足を広げさせました。
そして、男の人の男根を切り取ってしまったのです。
この男の人は「助けて!」と叫んでいましたが、そんなことはお構いなしにぐさりと男根を切り取った時、この男の人は「ぎゃっ」と叫んでいましたが、そのまま気を失ったのでしょう。
でも倒れることはできません。
学生や兵隊達はそんな姿を見て「ふっふっ」と笑っているのです。
私は思わず沈さんにしがみつきました。
旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行った時です。
日本の女の子が二人、保安隊の兵隊に連れられて出てきました。
一人の女の子は前がはだけていました。
この女の人が何をされたのか、私もそうした商売をしておったので、よくわかるのです。
しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。
二人のうち一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。
ほっぺたがひどく腫れ上がっているのです。
その女の人を引っ張ってきた保安隊の兵隊は、ほっぺたの腫れ上がっている女の人をそこに立たせたかと思うと、着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。
女の人は本能的に手で前を抑えようとすると、いきなりその手を銃剣で切りつけました。
左の手が肘のところからバッサリ切り落とされたのです。
かすかにウーンと唸ったように聞こえました。
そしてそこにばったり倒れました。
すると倒れた女の人の腹を銃剣で突き刺すのです。
私は思わず「やめて!」と叫びそうになりました。
その私を沈さんがしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。
私は怒りと怖さで身体中が張り裂けんばかりでした。
旭軒と近水楼の間にある松山楼の近くまできた時です。
一人のおばあさんがよろけるように逃げてきております。
するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うと、いきなりこのお婆さんに斬りかかったのです。
お婆さんは懸命に逃げようとしていたので、頭に切りつけることができず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。
学生はこのお婆さんの腹と胸を一刺しづつついてそこを立ち去りました。
誰も見ていません。私と沈さんとこのお婆さんだけだったので、私がお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんが目を開きました。
そして、「悔しい」と申すのです。
「仇をとって」ともいうのです。
私は何もしてやれないのでただ黙って額に手を当ててやっているばかりでした。
すると、このお婆さんが「ナンマンダブ」と一言お念仏を唱えたのです。
そして息が止まったのです。
私が西本願寺の別府別院にお詣りするようになったのは、やはりあのお婆さんの最後の一言である「ナンマンダブ」の言葉が私の耳にこびりついて離れなかったからでしょう。
お婆さんの額に手を当てていると、すぐ近くで何かワイワイ騒いでいる声が聞こえてきます。
すると支那人も沢山集まっているようですが、保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。
そこに保安隊出ない国民党政府の兵隊も何名かいました。
みんなで集まっているのは女の子を一人連れ出してきているのです。
何とその女の子はお腹が大きいのです。7ヶ月か8ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。
恐怖のために恐れおののいている女の子を見ると、女の私ですら綺麗だなと思いました。ところが、一人の学生がこの女の人の着ているものを剥ぎ取ろうとしたら、女の人が頑強に抵抗するのです。
歯をしっかり食いしばってイヤイヤを続けているのです。
学生が2つか3つかこの女お人の頰を殴りつけたのです。
そして時々「ヒーっ」と鳴き声を出すのです。
と、その時です。
一人の日本人の男の人が木刀を持ってこの場に飛び込んできました。
そして、「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。
これで自体は一変しました。
学生の一人が何も言わずにこの日本の男の人に青竜刀で切りつけました。
するとこの男の人はひらりとその青竜刀をかわしたのです。
そして持っていた木刀でこの学生の肩を激しく打ちました。
学生は「うーん」と言ってその場に倒れました。
すると今度はそこにいた支那国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊が、鉄砲の先に剣をつけてこの日本の男の人に突きかかってきました。
私は、見ながら日本人頑張れ、日本人頑張れと心の中に叫んでいました。
7名も8名もの支那の兵隊達がこの男の人にジリジリと詰め寄ってきましたが、この男の人は少しも怯みません。
ぴしりと木刀を正眼に構えて一歩も動こうとはしないのです。
私は立派だな、さすがに日本人だなと思わずにはおられなかったのです。
ところが、後ろに回っていた国民政府軍の兵隊が、この日本の男の人の背に向かって銃剣でさっと突いてかかりました。
するとどうでしょう。男の人はこれもひらりとかわしてこの兵隊の肩口を木刀で激しく打ったのです。
この兵隊も銃を落としてうずくまりました。
でも、この日本の男の人の動きもここまででした。
横におった保安隊の兵隊が男の人の腰のところに銃剣でグサりと突き刺したのです。
男の人が倒れると、残っていた兵隊や学生達が集まりまして、この男の人を殴る蹴るの大乱闘を始めたのです。
男の人はうーんと一度唸ったきり声が上がりません。
そして、あのみるも痛ましい残虐行為が始まったのです。
それは、この男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。
これ以上はもう人間の行為ではありません。
今度は、目玉を抉り取るのです。
この時まではまだ男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき僅かに手と足が動いたように見えました。
目玉を抉り取ると、今度は服を全部剥ぎ取り、お腹が上になるように倒しました。
そして、学生が又青竜刀で男の人のお腹を切り裂いたのです。
縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。
ズルズルと腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。
地獄があるとするならこんなところが地獄だろうなあと仕切りに頭のどこかで考えていました。
ハッと目を上げてみると、青竜刀を持った学生がその男の人の腸を切ったのです。
一尺ずつぐらいに切り刻んだ学生は細切れの腸を、妊婦のところに投げたのです。
お腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬に当たると「ヒーっ」と言って気を失ったのです。
その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。
その時、この妊婦の人が気がついたのでしょう。
フラフラと立ち上がりました。
そして一生懸命逃げようとしたのです。
その妊婦を見た学生の一人がこの妊婦を突き飛ばしました。
妊婦はばったり倒れたのです。
すると兵隊が駆け寄ってきて、この妊婦の人を仰向けにしました。
剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。
赤い血がパーっと飛び散りました。妊婦の人がひゃーという最後のひと声もこれ以上ない悲惨な叫び声でした。
お腹を切った兵隊は手をお腹の中につきこんでおりましたが、赤ん坊を探し当てることができなかったからでしょうか、今度は陰部の方から切り上げています。
そして、とうとう赤ん坊を掴みだしました。
その兵隊はニヤリと笑っているのです。
片手で赤ん坊を掴みだした兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです。
ところが、保安隊も学生もその赤ん坊を受け取るものがおりません。
赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。
私は、もう街の中には痛くないと思って、沈さんの手を引いて街の東側から北側へ抜けようと思って歩き始めたのです。城内の道を通った方が近いので北門から入り近水楼の近くまで来た時です。
その近水楼の近くに池がありました。その池のところに日本人が40人から50人立たされておりました。
ほとんどが男の人ですが、中には50を越したと思われる女の人も何人かおりました。
ついさっき見た手を針金で括られ、掌に穴を開けられて大きな針金を通された10人ほどの日本人の人たちが連れられて来ました。
国民党政府軍の兵隊と保安隊の兵隊、それに学生が来ておりました。
そして、一番最初に連れ出された50歳くらいの日本人を学生が青竜刀で首のあたりを狙って切りつけたのです。
ところが首に当たらず、肩のあたりに青竜刀が当たりますと、その青竜刀ひったくるようにした国民党政府軍の将校と見られる男が、肩を切られて倒れている日本の男の人を兵隊2人で抱き起こしました。
そして、首を前の方に突き出させたのです。
そこに国民党政府軍の将校と思われる兵隊が青竜刀を振り下ろしたのです。
この男の人の首はコロリと前に落ちました。
これを見て国民党政府軍の将校はニヤリと笑ったのです。
落ちた首を保安隊の兵隊がまるでボールを蹴るように蹴飛ばしますと、すぐそばの池の中に落ち込んだのです。
この国民党政府軍の将校の人は次の日本の男の人を引き出させると、今度は青竜刀で真正面から力一杯この日本の男の人の額に切りつけたのです。
するとこの男の人の額がパックリ割られて脳梁が飛び散りました。
国民党政府軍の将校は手を挙げて合図をして、自分はさっさと引き上げたのです。
合図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がわーっと日本人に襲いかかりました。40人か50人かの日本人が次々に殺されていきます。
そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。
池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。
全部の日本人が投げ込まれたときは、池の水は真っ赤になっていたのです、真っ赤な池です。その池に蓮の花が一輪咲いていました。
昼過ぎでした。日本の飛行機が一機飛んで来ました。日本軍が来たと誰かが叫びました。ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。
日本軍が来たというので、国民党政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。
悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残酷無比なことをした兵隊や学生達も、日本軍が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出していくのです。
私は今回の事件を通して支那人がいよいよ嫌いになりました。私は、支那人の嫁になっているけど、支那人が嫌いになりました。
こんなことから沈さんとも別れることになり、昭和15年に日本に帰って来ました。
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以上、引用終わり。
この事件に関わっっていた国民党政府軍の兵隊達。当時の佐々木テンさんのご主人が支那人だったこともあり、軍服を見て、そのように解説していました。
このような残虐行為を平気でする支那人の風習は、古来より実地されて来ました。明の皇帝は特にこの残虐な殺人が好みで、清朝末期の西太后の時代まで、残虐な刑罰が行われていました。
この事件のあと、現場に駆けつけた日本の兵隊たちは、どう感じたでしょう?
日本人を守れなかったことを悔しがったことでしょう。
この事件を昭和12年7月30日付けの号外として、東京日日新聞(毎日新聞)が報道したのをはじめ、読売新聞、東京朝日新聞など各社が報道しました。そして、その記事を見た日本人は皆、沸騰しました。
この事件に対して、冀東防共自治政府の保安隊を買収した国民党は、日本政府に謝罪をしたことがありません。また、「日本人を殺せ!」と街頭演説を北京大学の学生達にやらせた中共もです。
中共や国民党にとって、この事件は輝かしい抗日戦であるので、自慢することはあっても、決して謝罪などする必要ない事件なのです。
そして、日本が終戦した後に建国した中共は、このテロ事件の被害者である日本人を加害者にすり替え、加害者である支那人を被害者にすり替え、事件の場所を通州から南京にすり替え、被害者の数を250余人から40万人にすり替えて、全世界に向けて宣伝(プロパガンダ)し続けています。
さらに、ユネスコ世界記憶遺産として登録されてしまいました。名称も”通州大虐殺”ではなく”南京大虐殺”として。
通州事件のあった現場は高層ビルが立ち並び、事件の面影を残す建造物は何一つ残されていません。その一方、南京は、まるで大虐殺があったかのように、立派な記念碑や記念館が作られています。
通州の地で無念の思いで血祭りにあげられた日本人たち。
もし近未来に、日本が中共に侵略占領されてしまったならば、かつて通州の地で日本人が支那人から受けた残虐な虐殺、強姦が、日本国中で繰り広げられてしまうかもしれません。
通州で犠牲となった英霊たちのためにも、また、二度とこのような支那人による残虐な行為が行われないようにするためにも、通州事件が無かったこととして蓋をして目を背けるのではなく、真実の歴史として後世まで語り継いていきたいです。
参考図書
「慟哭の通州」加藤康男著