樺太の大平炭鉱病院の看護婦たち 集団自決の物語 | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

 

昭和20年8月15日、天皇の玉音放送があったのに、その後も樺太や千島列島では、ソ連軍による攻撃が続きました。そして多くの一般住民が犠牲となりました。

 

これは、日本軍が武装解除をしなかったのが原因である、とロシア人と一部の日本人は主張しています。

 

でも実は、日本軍は白旗を掲げて武装解除をしようとしたのに、ソ連軍は停戦協定に全く応じようとしませんでした。

 

マッカーサーからの停戦要求も無視して、ソ連軍は、軍事行動を続けて行ったのです。

 

8月9日早朝、札幌の第5方面軍司令部は、ソ連軍が日本国境を越えて侵略してきた報告を受けましたが、樺太や千島列島を守備している各部隊に対して、積極的戦闘行動は慎むよう指示。

 

大津敏男樺太庁長官と南樺太を守備する第88師団は、樺太在住の民間人約40万人を、北海道に緊急疎開することを決めました。

 

南樺太の第88師団は、防衛召集をかけて地区特設警備隊を動員。

 

翌日の10日、積極的戦闘行動を慎む命令が解除されましたが、最前線には届かず、前線部隊は、積極的戦闘行動を慎みながらも、ソ連軍からの攻撃に応戦していきました。

 

8月13日、国民義勇戦闘隊の召集を行いました。国民義勇戦闘隊とは、6月22日に公布された「義勇兵役法」にもとづく民兵(民間防衛)組織でした。

 

義勇兵役の対象は、原則、男性は15歳から60歳、女性は17歳から40歳。

 

持たされた武器は、竹槍、弓矢、刀剣、銃剣付き訓練用木銃、鎌など農具でした。

 

実戦に参加した義勇戦闘隊は、南樺太が唯一であり、警戒や陣地構築、住民の避難誘導などを行いましたが、8月18日午後4時の停戦命令により解散しましたので、6日間のみの参戦でした。

 

昭和20年8月15日、大本営から次の指令が各部隊に発令されました。

 

「ポツダム宣言受諾。

各軍は、別に命令する迄、各々現任務を続行すべし。

但し、積極進攻作戦を中止すべし。」

(大陸命 第1381号)

 

翌日の16日、大本営から次の指令が各部隊に発令されました。

 

「即時、戦闘行動を停止すべし。

但し、停戦交渉成立に至る間、敵の来攻に方りては、止むを得ない自衛の為の戦闘行動は、これを妨けず。」

(大陸命 第1382号)

 

この指令を受けた各部隊は、防衛召集の解除や、一部兵員の現地除隊・軍旗処分など、停戦準備に取り掛かりました。

 

しかし、8月16日、ソ連軍は、南樺太の塔路へ上陸。

塔路は、南樺太第2の都市である恵須取町に近い町でした。

 

艦砲射撃を受けた塔路町は火の海となり、住民は恵須取町へ避難していきました。艦砲射撃の後、上陸したソ連軍は、逃げ惑う住民に向けて容赦なく機銃掃射を行いました。

 

札幌の第5方面軍司令官である樋口季一郎中将は、ソ連軍が樺太経由で北海道に侵攻する可能性があると判断。

 

南樺太の守備隊である第88師団に対して、自衛戦闘を継続して南樺太を死守するよう命令。

 

これは、8月16日、大本営から出された命令、

”止むを得ない自衛の為の戦闘行動は、これを妨けず。”

(大陸命 第1382号)に基づくものでありました。

 

実際、ソ連軍は、南樺太を北海道の侵略拠点として使う計画を立てていました。

 

8月16日以降も、ソ連軍は戦闘を続けたので、樋口季一郎中将は、米軍のマッカーサー元帥に対して攻撃中止を求める打電をしました。

 

マッカーサーは、樋口季一郎からの打電を受けて、スターリンに対して攻撃を停止するように要求。

 

しかし、攻撃を停止するかどうかは、現場の司令官の判断によるとして、スターリンは、マッカーサーからの要求を無視しました。

 

8月18日、ソ連軍の総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥は、8月25日までの樺太と千島の占領し、9月1日までに北海道北部を占領することを各部隊に命令。

 

日本軍は、各地で停戦交渉を試みましたが、ソ連軍が、攻撃の停止を受け入れることはありませんでした。

 

また、白旗を掲げてソ連側陣地に交渉に向かった軍使が、ソ連軍によって処刑されてしまうこともしばしば起きました。

 

白旗を掲げて停戦交渉に訪れた軍使を処刑するということは、明らかな国際法違反であります。

 

「日本軍は無条件降伏したのである。したがって、日本軍に適用される国際法というものはない」、というのがソ連軍の主張でした。

 

昭和20年9月2日に、降伏文書の調印式が行われることが決まっており、また8月16日に、日本軍の各部隊への停戦命令が、大本営から出されていました。

 

そんな中の8月20日、引揚者約1,500名を乗せた小笠原丸が、樺太の大泊港から北海道の稚内にわたりました。

 

そこで約半数の乗員を降ろした後、稚内から小樽にむかいましたが、8月22日、増毛沖にてソ連軍の潜水艦からの魚雷により撃沈。638名の方が犠牲となりました。

 

同じく8月22日、大泊港から小樽へ向っていた泰東丸は、戦時国際法に則り白旗を掲げながら航行していましたが、留萌沖合にて、白旗を無視して攻撃を行ったソ連軍により撃沈。667名の方が犠牲となりました。

 

また同じ日、大泊港から約3,400名を乗せて小樽へ向っていた第二号新興丸は、留萌沖にてソ連軍潜水艦から攻撃を受けました。ソ連軍の攻撃により、大きな損傷を受けたため留萌港に寄港。約400名の方が犠牲となりました。

 

ソ連軍の潜水艦(L-19とL-12)の2隻は、魚雷で沈没した船から海に投げ出された人々に対して、機銃掃射を行い最後のトドメを刺しました。

 

8月22日のソ連軍からの攻撃により、沈没損傷を受けた3隻の引揚船を合わせて、1,708名以上の方が犠牲となってしまいました。(三船殉難事件)

 

ソ連軍は、南樺太の占領に続いて、北海道の北部を占領するため、狙撃部隊2個師団による留萌への上陸作戦計画を立てていたのです。

(サハリン州公文書館)

 

そのため、南樺太から北海道へ人や物資の移動を阻止するために、民間の船舶だろうが容赦なく撃沈して行きました。

 

低空飛行のソ連戦闘機からの機銃掃射、上陸したソ連兵からは機銃掃射、ソ連海軍からは艦砲射撃。陸海空からの攻撃の中を、南樺太の住民たちは、必死で逃げ回りました。

 

歩けなくなった幼い子供を谷から突き落としてしまい、半狂乱になった母親たちもいました。まさに地獄絵です。

 

8月17日、艦砲射撃で火の海となった恵須取町において、ほとんどの住民が避難する中、大平炭鉱病院の看護婦たち23人は、8名の重傷者とともに病院にとどまりました。

 

なぜ、看護婦たちは避難せずに病院にとどまったのでしょうか?

 

彼女たちは、最後までけが人を看護するという使命感を持っていたからです。

 

しかし、重傷者たちは、自分たちのことはかまわずに、早く避難してくれと、看護婦たちに必死に訴えました。

 

仕方なく、看護婦たちは、患者たちを病院に残して、後ろ髪をひかれる思いで病院を後にしました。

 

上恵須取を目指し避難しましたが、途中の武道沢で、ソ連兵が間近に迫っているという情報が入り、もうどこにも逃れることができない状態となりました。

 

高橋婦長は覚悟を決めました。

 

「年ごろの娘たちを預かったが、ソ連兵に捕まったら、強姦(レイプ)など何をされるかわからない。きれいな体で帰せないなら死を選ぶしかない」と。

 

そして、死に場所を、近くの丘の上の大きなハルニレの木の下に決めて、「君が代」「山桜の歌」などを唱和して、病院から持ち出した劇薬を飲みました。

 

逃げる途中で瓶が割れてしまい、致死量に達しないものは、手術用のメスで自分の手首を切りました。

 

高橋婦長を含めて、6人の看護婦がなくなってしまいました

。高橋婦長は32歳、ほかの5名の看護婦たちは、まだ17歳から24歳という若き乙女たちでした。

 

残りの17人の看護婦たちは、近くの住民に助けられました。

 

ソ連軍は、24日、樺太庁のあった豊原市を占領し、25日、大泊港を占領。これにより、南樺太全域のソ連軍による戦闘は終わリました。

 

大平炭鉱病院看護婦殉職者

 高橋フミ 三十二才

 石川ひさ 二十四才

 真田和代 二十才

 久住キヨ 十九才

 佐藤春江 十八才

 瀬川百合子 十七才

 

2007年、生き残った大平炭鉱病院の看護婦、桜庭さんは長い沈黙を破り、次のように語りました。

 

「死ぬことは全員の暗黙の了解でした。あの世にいったら、みんなに会える」と。

 

そして、「死んでいった仲間たちに申し訳ない」と。

 

日本軍や連合国司令官からの停戦交渉に全く応じようとしなかったソ連軍。

 

そのため、天皇の玉音放送の後も、多くの日本人が犠牲となってしまいました。

 

また、生き残った人々も、犠牲となった仲間の死を背負って生きてこられました。

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