ある台湾人の方のお話を聞きました。その方は戦前、戦中の時代に日本本土からきた先生に教わっていました。
その先生の授業で印象的だったのは、「公」(おおやけ)と黒板に大きく書いて、その隅に小さく「私」(わたくし)と書きました。
自分のことを犠牲にして、公に奉仕する気持ちが大切だよ、と教えてくれたそうです。
滅私奉公という言葉があります。
戦時中は、自分の命をかけて国のために戦地に向かう人を、近所の人たちが集まって盛大に応援して送り出しました。
戦後の日本で、ある教員組合に所属している小学の先生が、授業中、生徒に向かって言いました。
「親の職業で自衛隊員の人、警察の人、立ちなさい」と。
そして、その先生はその子供達に対して何と言ったでしょうか?
「あなた達の親は、犯罪者です。特に自衛隊は憲法違反です。税金泥棒です。反省しなさい。」と言って立たされました。
このようなことを言われた子供達は、一体どう感じるでしょうか?
自分の親を侮辱されたのです。しかも学校の先生から。
ある調査機関が、世界の主要国20カ国の中学生を対象に調査をしたそうです。その質問内容は「尊敬できる人がいるか」という質問です。
日本は最下位の20%の人しか尊敬できる人がいないという結果でした。しかも19位は70%を超えていましたので、日本はダントツの最下位です。
授業中に自分の親を侮辱するような先生に教わっていたら、尊敬したくてもできないでしょう。
以前、2万人規模の米国のあるビジネスのコンベンションに参加した時に、印象に残っていることがあります。
それは、「軍関係者の職業の人は立ってください」と司会者がアナウンスしました。
次に、その司会者が何を言ったと思いますか?
「私たちは、彼らが平和を維持してくれているので、このようなビジネス活動をすることができるのです。彼らに敬意を評して盛大な拍手をしましょう」と言ってその場にいた2万人の参加者が拍手しました。
日本の教育現場では、侮辱するように教育されている職業の人たちですが、米国では尊敬するように教育されます。
ちなみに先ほどの調査結果で一位だったのは米国でした。
日本では自殺者が毎年3万人います。自殺認定を受けるには遺書がなければならないそうなので、実際はもっと多いのではないでしょうか?
どうして自殺をしなくてはいけないのか、その原因はいろいろあるかと思います。
借金、人間関係、いじめ、などなど。
自分に自信が持てないとか、生きていても仕方がないとか、悩まれている人も多いと思います。
でも、そんな時でも尊敬できる人がいれば、なんとか生きていくことができるのではないでしょうか?
あなたはもともと向上心の塊です。
生まれた赤ちゃんは自分で何もできません。
喋ることも、歩くことも、食べることも、着替えることも、トイレに行くことも。
でも、生まれつき障害を持った人でない限り、いつからか「ハイハイ」をし始めます。
「パイパイ」とか「まんま」など赤ちゃん言葉を話し始めます。そして伝え歩きをし始めて、自分で何もつかまらずに立とうとします。
なぜ、赤ちゃんはこんなことをするのでしょうか?
母親から「早く立てるようになりなさい」、
と叱られたからでしょうか?
「早く話せるようになりなさい」
と怒られたからでしょうか?
そんなこと赤ちゃんにいう親はいません。
みんな、赤ちゃん自ら進んで
「立っちできるようになりたい」、
「歩けるようになりたい」、
と思って立ったり歩いたりするようになるのです。
自分は立てるかな、歩けるかな、自分には無理かもしれない、
などと心配したり不安がったりしません。
「自分は立てる!」、「自分は歩ける!」、ということに全く疑いを持たずに、歩こうとします。何度、転んで痛い思いをしても、何度、つまずいてけがをしてもです。
人間はもともと向上心の塊なのです。
「自分には無理」、とか「自分にはできない」、とかそんな心配をして躊躇して諦めるということをしません。
もし、あなたが赤ちゃんの時に何回か転んで痛い思いをした時に、「もう自分には無理」と言って、歩くことを諦めていたらどうなっているでしょう?
今、あなたは当たり前のように2本足で歩いているかもしれませんが、いまだにハイハイしているかもしれません。
あなたはもともと向上心の塊です。
できない、とか無理、という発想はもともと持っていませんでした。
しかし、親や学校の先生からの影響を受けて、次第に、自分の能力を制限するような思考回路が優先されていきます。
あれしちゃダメ、
これしちゃダメ、
あなたには無理、
など。
ある一定の制限はいいのですが、それが過剰になると、弊害が出てきます。
せっかく持って生まれた才能も十分に発揮することができずに、一生を終えてしまうという人は多いのではないでしょうか?
あなたの無限能力を発揮して、人生をよりよくして行くことは、社会にとっても意義があることです。
滅私奉公という言葉は、自分の能力を押し殺して、他人のために尽くすという意味ではありません。
あなたの持って生まれた無限能力を存分に発揮して、それを社会に還元していくことが、公(おおやけ)に尽くすという意味です。
それが戦時中であれば、戦地にて上官から与えられた任務を黙々と忠実に遂行して行くことになります。
平和の時代に生きていると、そんなのは馬鹿馬鹿しい、とかいう意見になりがちです。戦争は無いに越したことはありません。
でも、公(おおやけ)のために尽くすという意識を持って、戦地で散っていった魂を、ないがしろにするような社会は良い社会なのでしょうか?
ご先祖様を大切にする心、父母を大切にする心をを育てて行くのが本当の教育だと思います。