「小原日登美 -遠回りして輝く-」
2012年8月14日 東京新聞夕刊「スポーツが呼んでいる」
スポーツライターは観客になってはならない。
だから会場の記者席にいる時は、心のひいきが勝っても、さとられぬように小さく笑うだけだ。
でも遠くロンドンからの深夜中継を暗い部屋でひとり凝視すれば、まさに手に汗をかいて「よしっ」の声を発する。
いや本当は声さえ出ない。
女子レスリング48キロ級、小原日登美、涙の金メダル獲得の時間がそうだった。
すでに多く報じられている通り、もともと51キロ級の無敵の女王として鳴らした。
重いタックルと完璧なフォールありきのスタイルには安定感があった。
ところが五輪に同階級は採用されなかった。
48キロ級に落とすのが近道ながら、そこには妹の真喜子がいて「対決」を避けるため宙ぶらりんになった。
2003年夏に中京女子大(現・至学館大)を休学、心身の悩みから体重は74キロまで増えた。
丸みを帯びた体と、とがった視線の不均衡が切なかった。
家族はひとりになるのを心配した。
05年春、当時は旧姓の坂本日登美にインタビューした。
自衛隊体育学校に新天地を求めて1年後だった。
苦悩の時期を本人は言った。
「死んでもいいってくらいの毎日」。
そして自衛隊での選手生活を「その頃がウソのように楽しい」と語った。
埼玉・朝霞の陽光が差し込むようなマットで、男子選手に囲まれて姉妹はキャッキャッと笑っていた。
ロンドンの歓喜の序章だった。
小原日登美が五輪を制した直後、テレビの解説者は感極まった。
無理もない。
その人、藤川健治さんは自衛隊での師にあたるのだ。
当時の取材では、新しい教え子についてこう述べていた。
「日登美は器用ではありません。
技術の優れた者なら3回で覚えることが6回かかる。
でも、その6回を50回繰り返すことができるのです」
ウサイン・ボルトのごとき圧巻の怪物性に驚く。
それも五輪の楽しみなら、曲がり道を経て、ようやく頂点に立った者への喝采もまた喜びだ。
あの春の体育館、7年後の五輪王者はこんなことを話した。
「生きていくためにレスリングをするのではなくて、生きているからレスリングができる。
そう思うようになったんです」
降られて立ち止り前へ進んだら、黄金の光はあっけないように降り注いだ。