「競泳ムサンバニ -いじめない勝負証明-」
2012年7月24日 東京新聞夕刊「スポーツが呼んでいる」
いじめる者よ、凝視せよ。もうすぐロンドンで始まる五輪を。
スポーツで心身を鍛えるのは「いじめられないため」でなく本当は「いじめない」ためである。
エリック・ムサンバニという人物を覚えておられるだろうか。
アフリカの赤道ギニアの競泳選手である。
2000年のシドニー五輪、男子の100メートル自由形予選で、同組の他の選手がフライングしたため単身でよれよれと泳ぎ切り、優勝タイムの2倍以上もかかったのに1万7000人の観衆の大きな拍手を送られた。
当時22歳のムサンバニは、その8ヵ月前までほとんど泳げなかった。
母国に与えられた特別枠で出場が決まり、首都マラボのホテルの20メートルプールで孤独に練習、週末には近所の川をレーンに見立てることもあった。
シドニーには競技の5日前に到着。もともと「50メートル自由形」という不正確な情報に従って練習してきたので、ターンの後の50メートルはいわば未知の領域でもあった。
一流でない競技者を過度にたたえるのはよくない。スポーツはスポーツ、勝負は勝負だ。
ただし、ムサンバニを世界はあざ笑わなかったのも、またスポーツだからだ。
誰もバタバタと腕をかく青年をいじめはしなかった。
共通のルールと目標のもとに競うスポーツでは、そこに集う者の「事情」がくっきり浮かび上がる。
赤道ギニアの国情、ムサンバニの競技歴や練習環境もその一例だ。
勝者は、自分に誇りを抱きながらも、敗れた相手の立場を想像できる。
シドニー五輪の競泳の新星、地元オーストラリアのイアン・ソープにしても「もし自分がギニアに生まれていたら」と一瞬は思いをめぐらせたはずなのだ。
勝負とは常に残酷だ。
あれほど力を尽くしてきたのに、こんなに不利な条件を克服してきたのに、あなたは時に負ける。
もしかしたら、あなたほどの努力してこなかった相手に打ちのめされる。
前の日にカゼをうつされたら数年間の蓄積の多くが崩れ落ちるかもしれない。
負ける時もあるだろう。
勝負の厳しさを知る前に、他者をいじめて白星を気取るのは悲しい。
それは泳げるのに敗北をおそれてプールの横を歩くのと同じだ。
足の先がプールの底に触れそうなムサンバニの泳ぎに自分の弱さと強さをともに見る。
寛容とはそういうことなおだと思う。