思うこと | 社会人からちょっとはみ出したhiroの社会生活。改め、社会人になったhiroの社会生活。更に改め、二人の娘の父親になったhiroのブログ

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妻と二人の娘の4人家族。下の子は、生まれながらの慢性肺疾患。
出生から1年半のNICU生活からやっと開放され、自宅看護。毎日、娘の顔を見ながら、手をつないで眠る。ご飯はたべられないので、径鼻栄養チューブ。肺が悪いので、酸素濃縮機。それでも、毎日楽しく笑ってる。

個人的に思うことを書きたいと思います。


3月11日


私は、青森県にいました。


日本海側だったので、地震、津波の被害はとくにありませんでした。


実は、2月から精神的な問題で職場に行けない日々が続いていました。


その時にあの大震災が起こりました。


大規模な停電。


電話、携帯は通じない。これは多くの方が経験したことだと思います。


3月の青森は非常に寒く、毛布に包まり、余震の続く中、1箇所に集まって寝たことを覚えています。


夜はろうそくとラジオ。また、ポータブルワンセグテレビがあったので、福島のニュースに食い入るように見ていました。1歳8ヶ月の娘は、地震が怖くなったようで、少しのゆれでも、「怖い」といって、抱きついてきました。


私は、今、なぜこんなことが起きたのか。

何か起こっているのか。そしてこの先どうなるのか。全くわかりませんでした。精神的な問題もあったのかもしれません。ただただ、娘を抱きしめました。それ位しか、私には出来ませんでした。


私の頭には、当然、「帰らなくちゃ」という考えもありました。でも、家族に止められました。今帰ろうとしても無理だと。私もわかっていました。でも、「帰らなくちゃ」と思っていました。今思うと混乱していたのかもしれません。とりあえず、数日様子を見るように言われました。確かに、各地の電車、新幹線は終日運休、高速道路にいたっては、何百箇所も崩れ、ヒビが発生し、通行止めで開通の見通しはたっていませんでした。加えて、ガソリンの不足。とても、青森から栃木に帰るまでのガソリンがあるとは思えませんでした。


数日後、電気が復旧し、地震・津波・原発の被害が明らかになり始めました。流通が寸断され、食料や生活必需品などを扱っているお店の在庫も少なくなってきたようで、大行列が出来ていました。ガソリンスタンドも同じでした。


それから、おそらく1週間程度たった後だったと思います。

私は、栃木に帰ることを決めました。東北自動車道は被災し、未だに通行止めでした。福島原発の事故もあったので、青森から秋田、岩手、新潟、群馬を経由し栃木に帰りました。確か、約900kmの長旅でした。


青森の家族は、もう少し待ったらどうだと言ってくれました。しかし、私の考えは変わりませんでした。

今思うと、なぜ帰ることを決めたのか覚えていません。あの時、残っていたら、私は今どこにいたのでしょうか。


翌日、私の車には、たくさんの食料と、毛布、非常用の懐中電灯、乾電池、ラジオなどが詰め込まれていました。

家族が私を思い、用意してくれたものです。私は、早朝に出発しました。あの時のみんなの顔が忘れられません。一応に不安そうな顔をしていました。でも一番、不安だったのは私かもしれません。もうすぐ4月とは言え、っまだまだ冬です。しかし、不安を押し殺してでも、帰るのを決めたのはほかならぬ自分自身です。今となっては、なぜ変える決意をしたのか、やはりわかりません。


出発時、私は、妻に抱きかかえられる娘を見て、「いってきます」とだけ言いました。娘はきょとんとした表情で、「どこ行くの?」ときいてきました。妻は「パパ、お仕事いくんだって。帰ってくるまで、いい子で待っていようね。」たけ説明しました。でも娘は何度も「どこ行くの?」と繰り返していました。


今日はこの辺でやめます。続きは、思いたったら書きます。