1995年1月19日の朝も寒かった。
次男も元気にしている様子。大阪から甲子園までの電車が動いたという情報を得て、地震から48時間経っても全く自宅の状況が見えない中、とにかく自宅に戻ろうという気持ちを抑えることが出来なくなった。TVでは、まだ燃え続ける街並みの様子が映し出されていた。もう48時間も経っているのに・・・。
電車を乗り継ぎ、阪神甲子園球場の目の前にある甲子園駅までたどり着いたのは、まだ朝9時前だったと記憶している。駅に降りて最初に感じたのは、大きな荷物を担ぐ人が多いこと。又、本来ならスーツ姿の多い時間帯なのに、皆が着の身着のままで足早に、そして顔に緊張感の漂う人が走りすぎていた。
とにかく自宅の方向に向うしかない。真っ先に目に飛び込んだのは、ブロック塀が崩れた国道沿いの家や、マンホールのふたがはるか遠くに飛ばされたために見られる大きな穴、そして割れた窓ガラスの破片。
今まで車でしか走ったことのない国道43号線を西に進むと、いよいよ崩壊した家屋や隆起した道路が生々しい姿を見せ始めた。歩く速度での目線は、その光景をじっくり目に焼き付けていく。すさまじい光景が、進めば進むほどより非現実的な光景に変わっていく。尚西に進むと、1階部分が完全になくなった家屋に泣きながら呼びかけている女性の姿をみた。
何度も書くが、もう地震から48時間以上も過ぎているのに。
潰れた家屋の横にはビニールに包まれたご遺体も並んでいた。
2時間半も歩かないで、東灘エリアに来た。当時ハンブルグに駐在していた上司のご自宅前に着いた。ご両親が住まれていた実家は、海外赴任をされる前に何度もお邪魔したお宅である。外から見る分には全く亀裂も入っていなければ、傾いていることもなくご両親はその場にいらっしゃらなかったが、携帯電話でお宅の前からハンブルグに電話して、ご自宅が無事であったことを伝えることが出来た。海外にいて、神戸のことが気になっていた上司やご家族には、吉報であったと思われる。
「すまんな、ありがとう」という言葉をもらったが、ご両親の居所が分からず心配は変わっていなかった。
もうひとつ伝えなければならなかったことは、密接する両隣の2階建ての家は、完全に崩壊して、見るも無残な状況になっていること。後でわかった事だが、ご近所さんの中には多くの亡くなった方がいらっしゃった。ほとんどが圧死だったようである。
気を取り直し、又西へ進んだ。
三宮駅に到着する前に見た光景は、フロアが潰された神戸新聞のビルや完全に崩れ落ちているよく行った飲食の雑居ビルなどなど、焼け落ちた家屋などもあり、まさに爆弾が落とされたような写真で見る戦後の映像と同じであった。
TVのニュースで見た高速道路から落ちそうになっているバスもそのままだった。
三宮では自転車の鍵を壊す警官の姿があり、聞くと、「移動を急ぐ人は乗り捨てられた自転車を使っていいよ」という緊急措置をとっていた。その行為は、警察の判断なのか、その警察官の判断なのかは分からないが、既に17Kmの道のりを5時間以上歩いてきた僕にとっては、与えられた自転車は本当に嬉しかった。「後で戻しておいてな!」と声を掛けてくれた警察官の方に礼を言って、寒空を一生懸命漕いだものである。
この頃に、近所に住む友人に連絡がようやくつき、彼とその家族の無事を確認。その喜びが自宅への坂の続く道のりを進む勇気を与えてくれた。
長田区に近づくと、消防車や救急車の数が増え、異様なにおいと煙に包まれていった。オレンジ色の火が見えることもある。街中が焼き尽くされていく。自転車を漕ぐ自分の顔に当たる風は、熱を帯びていた。自然と涙が出て、不安と焦りが心を埋め尽くしていった。
甲子園を出て8時間が過ぎた頃、ようやく須磨区の自宅近くにたどり着いた。自宅マンションがはっきりと見える位置に来たとき、自分の家が存在することに喜びを覚え、又同じタイミングで携帯で連絡を取った友人が別の友人と2人で打ちの様子を見に来てくれていた。甲子園から30Kmの道のりでった。
今まで見た光景に登場した人には申し訳ないと思ったが、自宅と友人の無事を確認した我々は抱き合うように喜んだ。目には又涙が・・・・
マンションの玄関を開けようと鍵を差込みカチャっという音と共にその鍵は開いた。中の様子を早く見たい気持ちと、怖い気持ちの両方が手を震えさせた。そして、ノブを握って思いっきり開けようとしたが、10センチも開かずに何かに引っかかった。

マンションそのものが大きく揺れたため、中のバーロックが倒れ勝手に鍵がかかってしまっていた。どれだけ揺れが凄まじかったかが想像できた。そのため家の中に入るには時間がかかった。
家の中は、思った通りのありさまで、一番印象に残ったのは、リビングの端にあった大型のブラウン管テレビが台所を越えて玄関近くまで飛ばされていたこと。
もし2日前に、ここで妊婦の家内がいたなら、いったいどうなっていただろうか。この場所で破水していたらどうなっていただろうか。色々な事を考えると、前年に亡くなった祖父や叔父が自分たちに運をくれたように思えた。又その日に産まれてくれた子供にも大阪の実家へ逃げることを事前に告げてくれたように思い、感謝した。
亡くなられた方々には本当に御冥福を祈るばかりであるが、1月17日の次男の誕生日を迎えるたびに、この3日間を思い出す。今元気に家族皆で過ごさせてもらっていることに、改めて感謝したい。
明日の通勤も自転車で行こう。
追記:それから15年後の東北の地震に、又自分が仙台にいあわせるなど、この時には考える事も出来ない。