みなさん こんにちは。
雨が降る前の朝焼けは
あかく きれいなことが多いです。
今日も 早朝の散歩で見た東の空は
雲があったものの、
あかあかと広がっていました。
雨が近いのでしょうね。
さて、 さきほど
洗濯物を干そうとベランダへ出ましたら、
遠くから 小さな子どもの泣き声が
聞こえてきました。
声は だんだん近づいて
より一層大きくなってきます。
やがて 2歳くらいの男の子と
お母さんの姿が 見えてきました。
お母さんは ずんずん歩いていきます。
そのあとを 男の子は小走りになって
何かを必死に訴えながら
わんわん 泣いて追いかけます。
お母さんは 無言 です。
姿が見えなくなっても
かなり長いあいだずーっと
男の子の鳴き声が聞こえていました。
こういう光景を よく目にします。
アラカンmotherの時代から
よくある光景でした。
しかし 近頃は 少し
以前のそれ とは違うな。
と、思うことがあります。
とにかく 子どもが
ずーーと 訴え続けるのです。
泣き続けるのです。
親のほうも どんどんかたくなになって、
もう、 引くに引けず という感じです。
それって 虐待にみえちゃいませんか?
と 思いますが、
ちょっと違うような気がするのです。
昭和育ちで、平成に子育てをしてきた
アラカンmotherです。
今までだったら、自分も含めて
泣いても 訴えてもダメだったら
結局 あきらめたのです。
子どもなんてものは、
親がいないと 生きていけないのです。
生き残るために、
無意識の 処世術のようなものです。
そして 何回かそういうことを繰り返し、
そのうち
そういう無駄な抵抗をしてもダメだ と
あきらめて、 もう、
やらなくなっていきます。
そして まわりの大人は
おにいちゃんに なったね。
などと ほめてくれたりします。
時はすぎて
小学校入学を迎えるころには、 よく言えば、
one of them として
扱いやすい一人 となっていて、
集団生活も自然に 馴染んでいきました。
しかし最近は どうも違うのです。
あきらめない のです。
主張し続ける のです。
泣き疲れて 眠って。
目覚めたら また
同じことを主張したりするのです。
両親は、仕事 家事 やること山積みで
イラだちます。
まして今は 両親とも
日中は保育園に預けていますので
コトの前後の成り行きが
把握できないことが多く、
その泣きわめいてる状態だけを見て
判断し、怒ったりしてしまいます。
子どもは
表現能力が まだ乏しく、
言いたいことの100分の1 くらいしか
伝えられないのです。
でも、 今 彼らはあきらめないのです。
保育園生活で、
時間どおりに動く習慣は
身についています。
でも、 心のコントロールは
できません。
小学校入学の年齢になるころでも、
まだ
one of them の一人として
とけこむ下地は ありません。
学校も たいへんなことだと思います。
小学校入学までに
仕上げておいてほしい
心のコントロール という下地が
ないまま入学して、
それを、教師に求めて、
詰め寄ってくる保護者も多いとききます。
誰がいいとか、 悪いとか ではないのです。
子どもの中身が 変わってきているのです。
進化して 生まれてきているのです。
チョコザイな処方術 などでは
簡単になびかない
大きな柱のようなものが あるのです。
さあ、 おもしろい時代となりました。
何か 大きなものになびいていれば
結局 なんとかなった
そんな 昭和 平成 とは
あきらかに違う時代です。
何の準備も 効果がない時代です。
じゃあ これから何を頼りにして
生きていけばいいの?
何かを頼りにする。
何かを マニュアル化する。
それそのものが、もう 死語 ですね。
じゃあ どうしよう!
ほら、 そこに 師匠がいるじゃない。
顔をまっかにして泣き叫んで、
全身で 何かを訴えている
小さい紳士とレディーが、 いるじゃない。
まちがえなく 彼らは
この新しい時代を生きるための仕様で、
生まれてきているのです。
彼らは 何を そこまで嫌がっているの?
何を そこまで必要としているの?
かがんで 目を見て、
よーく その言葉に耳をかたむけたら、
しょーがないなー
レベルの低いヤツに わかるかなー
と、 ちょっとだけ
ヒントを教えてくれるかもしれませんよ。
新しい時代の 小さな芽 は、
もうちゃんと やってきているのですよ。
がんばっているひとも
がんばれないひとも
がんばらないようにがんばっているひとも
今日も
ありがとう ございます。