「ばけばけ」は舞台を熊本に移し、派手な事件もなく、
少し様子が変わってきました。
今更ながら、国宝吉沢亮さん、いやニシコオリさんの
存在の大きさに気づく今日この頃です。
あの喀血以後、どうして暮らしていらっしゃるでしょうか?
気になるところです。
地元松江では、まだいろいろな講座が開かれており、
昨日は「小泉八雲記念館」主催のレクチャー
「ヘルンとセツの架け橋 西田千太郎」がありました。
講師は、島根大学の英米文学専攻で
小泉八雲の研究者である宮澤文雄先生です。
先生は、八雲の研究を通して、
その大きな支えであった西田千太郎の研究にも勤しんでおられ、
現在、旧西田千太郎邸の復活のために尽力を注いでおられます。
昨日は、西田千太郎の経歴、生き様、思想など話され、
西田の色々な人となりがわかってきました。
そもそも、小泉八雲が松江に滞在していた時や、
熊本などの様々なエピソードは
西田がほぼ毎日書き綴っていた日記と、
八雲と200通近く交わされた手紙により明らかになったことで、
その後、西田邸に残されていた多くの資料(学校の成績表や写真)によって、
より鮮明に明かされているそうです。
西田が10歳の時、生家近くのお寺に小学校ができ、入学。
最初の卒業生は二人という少なさでした。
その後15歳で松江中学二科(英学科)に入学しますが、
17歳で退学、生徒ではなく先生として授業を手伝うようになります。
当時、西田のような優秀な学生は、勉強して上京し、
帝大に入って国の優秀な人材になる、
というのがエリートコースでしたが、
彼は下に3人妹弟がいたため、家族を助けるために、その道を断念します。
それがドラマでも言っていた
「帝大も出ていない、教員免許も持っていない」というのに繋がります。
しかし、23歳の時奮起して教員免許を取得します。
が、最初は5教科のうち1教科、それも英語を落としてしまう、
という泣くに泣けない結果だったそうです。
しかし、その合格した他の4教科は全て全体の1位の成績だったので、
なんだかわからないけど流石です。
(八雲が松江を離れた30歳の時、英語の試験も合格します)
彼の同窓、友人の中には、後に国際弁護士、政治家、
国際オリンピック委員の岸清一や、
日本興業銀行総裁・仕立鉄次郎、衆議院議員・岡本金太郎、
小説家の長谷川辰之助(二葉亭四迷)などがいましたが、
常に西田が首席だったようです。
なので、余計に自分の身の不運を心の隅では嘆いたことと思います。
しかし、昨日も出ていましたが、
八雲を陰で支え、離れても一生懸命尽くしていたことにより、
今、この時代にまで語り継がれ、
松江市民に大事にされる人となったことは、本当に良かった。
報われました。
また、弟も熊本五高を卒業し国際交流の影の立役者となり
日本と世界をつなぐ大きな役割を果たしました。
八雲にとって西田千太郎は
◎よき同僚
(初日に学校案内、他の教師への紹介、テキスト準備など)
◎リテラリーアシスタント
(八雲が行きたいところへ、ガイド、通訳、解説、翻訳)
◎心から信頼できる親友
でした。
本当にいい講座でした。
昨日3月1日より、西田邸復興のための
クラウドファンディングが始まっています。
ご興味のある方は、ぜひご協力を。



