振り返ると


10代はギターに明け暮れてた


高校3年生で楽器店のギター教室の

先生になり、同時に中洲のキャバレーや

赤坂のレストランでギターを

弾くようになりセミプロ(昔の言い方)

になって、高校卒業して2年間はそんな

生活。

 

20代は、中洲のキャバレーの仕事が

カラオケの台頭で箱バンドの仕事もなくなるよ

なんて言われだして、人足先に鞍替えを決心し

遅蒔きながら予備校に通い

某大学の法学部に通うことになった


予備校のお金はギターの仕事で工面した


大学卒業して東京に行くまで

ギター教室の先生は続けたから

それは7年間続いた


今考えるとギター教室の先生の7年間って

ボリュームあるなぁ、と思う


大学生の時はオリジナルの作詞作曲に

明け暮れて、曲を書いてはライブホールで

歌ってた。


同時、法学部の卒論は原稿用紙150枚以上という決まりがあり、しかも、大学指定の原稿用紙に

手書きという時代だから、大変だった。


テーマは音楽著作権で、当時、貸しレコードなる

お店が出てきて著作権がどうの、こうの言われだして、音楽やってるから近いかもと思って書いた


この論文は法学部でも初めて扱うテーマということで、卒論選集に選ばれて小冊子になった


ちなみに、大学2年の秋に

うちの本家にあたる神社の家に養子入る

某大学法学部卒業後、

神道系某大學神道学専攻課に進学する



その後、宮司になり

法学部で鍛えられた論文作成は

30代になってから役に立った。


33才から38才の5年間は研究者になった


神主になって、「隠れキリシタン」に興味を持ち

なんとなく調べていたが

本格的に知りたくなり

当時、その研究で名を馳せていた教授を訪ね

その教授に同行して研究を始めた。

自宅から取材地までは車で3時間半

何度も通った


運良く、某女子大の比較文化研究所に参加することができて、教授や准教授に教えを乞いながら

本格的に論文を書くようになった

書いた論文は、これも運良く全て宗教系研究雑誌にのり小冊子で保存されている




研究を始めた理由は生月島に伝わるオラショ(江戸時代に伝わったグレゴリオ聖歌)が聞きたい

一身であった


某女子大では自分が授業を行う場面もあり

貴重な経験も出来た


神主がキリスト教の歴史に関わる

カクレキリシタン(隠れキリシタン)の

研究をするという物珍しさからか

NHKの取材を度々受けた


長崎ブリックホールのこけら落とし公演で

カクレキリシタンのオラショとギターの

競演というイベントも、たくさんの人の協力で

実現できた


現在は、神主の資格を取るための講習会が

数年に一度、各県持ち回りで開かれるのだが

その折に、神社本庁の辞令を持って

『日本宗教学』の講座の講師をしている


楽器店のギター講師(キャバレーのギター弾きでも良いが)が

神社の宮司になって

神主さんの先生にもなっているという

摩訶不思議な経歴だ



誰かさんには

「あなたは器用貧乏ね」と言われたが、

まさに、その通りなので返す言葉はなかった


確かに、研究は雑誌の類いで、書物を出版しているわけではないし、

音楽もインディーズレーベルから3枚のCDを出しているがメジャーレーベルとは無縁だ。


器用貧乏とか、経験豊富とか

そんなレベルだ


30代はカクレキリシタンの研究家と

ギタリストとしてライブハウスツアーを

行う演奏家と

と神社の宮司と二刀流ならぬ

三刀流?な動きをしていたんだ


まさに、器用貧乏を絵に描いたような

30代だ


若さがないと不可能なことなので

若い時にやっておいて良かった