疲れた体と心、どうしようもなくなって、サヤカさんのところへ
今日で3回目の健康salon saya
悪い体を整えてくれるのと同時に彼女にはなんでも話せて今の心の闇も薄めてくれる
駆け込み寺のような存在になっている
サヤカさんとはとても気が合う
そう気が合うのだ
感じできたことも感じていることもとても似ている
だけど考えすぎてマイナスの連鎖に陥っている僕に対して圧倒的にプラス思考
そこに大いなる気づきが生まれる
考えて結論でないことはまだ答える時じゃないととりあえず棚上げ、考えるのやめてとか、私は小さなことに幸せを感じるようにしている、自分が幸せだと思えば幸せになるんだよとか、
サヤカさんにもいろんなことがあった
成人した双子のような娘さんがいてそれは仲良く二人でここまで来たけど、そろそろ離れてあけなきゃと思ってるとか、たくさんの話を2時間の施術の間話しているうちに心も体も軽くなってくる
本当に素敵な人だ
友達になって欲しいというと、もうかなりそうだと思ってますけどと言ってくれた
食事に誘いたいなと思ってたら 内臓も弱ってたので、今日は夕食は食べたいと思ったら食べるくらいに考えて食べなくてもいいと先手を打たれた笑
ステキな人との出会いに感謝 これも幸せなことですね
今日の宿題守りますね

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7月19日は、おじいさんの70回目の命日でした。
おじいさん園田豊二は、大日本帝国陸軍の陸軍大佐でした。
終戦間際の昭和20年7月19日、ビルマ、今のミャンマーのジャングルの中で、砲撃を受け、亡くなりました。亡骸は現地に部下が埋めてくれましたが、今もお骨は不明のまま、骨壷には石しか入っていません。
僕は当然ながら、おじいさんにはお会いしたことがありません。だけど、小さい頃から、軍服姿の写真がかざってあり、その写真にお茶をあげ手を合わせるのが日課となっていました。そんなわけで、常に身近に感じており、何かにつけ精神的に頼りにしてきたものです。そういう中で、戦争というものを身近に感じてきました。
おじいさんはなぜ死ななければならなかったのか。おじいさんがラングーンに向かったのは、もう終戦の年の5月でした。それも、戦争に行ったのではなく、現地にいた一般の邦人を救出するためでした。ビルマではインパール作戦に大敗した後、戦況は悪化し、日本軍は逃げの一手となってしまった。たくさんわたっていた日本人を安全な場所に移すため、旅団が組まれ、その旅団(独立混成百五旅団)を率いるために向かったのだ。多くが一般人のため、武器も最小限しかもたず、1カ月にわたってジャングルを行軍することになった。そんな状況なので、玉砕を叫ぶものも中にはいたが、おじいさんは決して戦わず、ただただ身を潜め、邦人救出のため、逃げることに徹した。その態度は立派だったと思っている。
亡くなったのは敵の手の伸びない川向こうに渡る前日だった。邦人の多くは逃げられたが、おじいさんは残念ながらその責務は果たしつつも彼の地に眠った。その様子が生き延びた人の手記によって知ることができたことにとてもありがたく思う。
おじいさんは徴兵されたのとは違い、職業軍人だ。戦争をした者であり、人もたくさん殺しただろう。明治から昭和初期にかけて、日本は欧米の列強と肩を並べるべく、富国強兵の名の下急速に発展させてきた。それは当時、当たり前のあるべき国の姿として、疑う余地はなかったのだと思う。そんな中では、軍人という職業は花形であり、お国のために働く人として尊敬さえされた。父が小さい頃、東京から佐賀の地元に戻った際は、それはそれは大変な歓迎ぶりで、白馬にまたがるお祖父さんが誇らしかったとのことだ。お祖父さんもそういう中で、国を思い仕事してきたはずだし、それこそ日本の平和と安定のために身を捧げると思っていたに違いない。その時は正しいことだと、やるべきことだと思っていたのだ。
人間はそれほど信じやすく流されやすい。僕たちはせめて学ばなければならない。この戦争で日本人だけでも310万人もの人が犠牲となったのは事実であり、戦争という行為はなんら肯定されるべきものではない。私たち日本人はそのようなことは二度とおこさないために、戦争を放棄し、平和憲法を掲げたはずなのです。時代背景は違うにせよ、今、戦争になりうる道を開くことは、同じ過ちをする可能性に道を開くことであり、先人たちの多くの犠牲の元に我々日本人が学んだことを無にしかねない暴挙である。

100まで生きたおばあさんは、戦後70年近くの間、ずっとおじいさんを愛し続けた。おばあさんが毎日のように読んでいたおじいさんの日記。そこには、常に妻子を思う気持ちが綴られていた。戦争などなければ、ずっと一緒にいられたのに。
おじいさんは歌が好きだったようで、文中によく出てくる。

昭和16年8月4日の日記 満州へ赴くため別れの日

渋谷駅まで見送る。妻は最後まで夫なる人の後ろ姿を見守りおりき、ああ!!お別れ、愛すべき妻子との離別、苦(?)しき別れか、はたまた悲しきわかれか。何れになるかは知らねども人生の離別、又感なきあたわず。

今日よりは省みなくて大君の しこ(醜)の御楯と出で立つ我は
草枕旅行くせなが丸寝れば いわなる我は紐とかず寝ん

古へのサキモリの歌へる歌を真に身にしみて・・・・・・

妻子よ 健やかで そして朗らかに故郷にて父母の膝下に在りて暮らせ!!ただこれを祈るのみ
夫は、父は陛下に召されて御楯となりて出で立つぞ。もしも、帰らぬことありとも悲しむな。

この後、満州から東南アジアを転戦し、一度は、帰国して再会できるのですが、再び戦地へ行き帰らぬ人となりました。
上記は万葉集防人の歌の中の歌で、国と妻子への思いの間にいる自分を防人になぞらえたようです。
この日記は昭和17年2月4日で冊子を終え2冊目に入っている。最後には啄木の一握の砂よりこんな歌も書いてった。船で移動中上海を過ぎた港で書かれていた。

平なる海に疲れてそむけたる 目をかき乱す赤き帯かな

疲れと不安を感じる歌。まさに今啄木の気持ちと同じだと書いてある。おばあさんを思う気持ちが募ったのだろうと思う。

こうしておじいさんの日記に目を通すとおじいさんが生きていたことを実感する。そして、命をつないでくれたことに感謝するのです。
僕はもちろん戦後生まれで戦争を経験したわけじゃないけれど、おじいさんのことを思い続けていることや、子供の頃から聞いた話などから、戦争を身近なことに感じている。戦争を直接知らなくても、かつて私たちにつながる先人たちが全員戦争という悲惨な経験をしたのだと、僕たちはその命をつないでいるのだと知ることで、そういう風にこれからの子供たちにも、知ってもらうことで、戦争を記憶し続ける責任を持とう!ということが大切なのではないだろうか?

僕なりに戦後70年に際して記す

ブレスレットが切れたので入った。いつも通り過ぎる怪しい店。
占いもするそこで示唆に満ちた時間があった。
まず、ブレスレットが結んでもらったのに話しているうちに切れた。本結びにすると切れにくいので、YouTubeなどで見るとわかると言いながら話していた矢先に。石に見られる人、関係ない人がいること、石の影響のある人は5パーくらいで、大概は関係ないこと。はめることで悪い方にでることがあること。海老蔵ははめてたら、襲われた事件があった。坂本龍一も喉頭癌になったなど。ぼくも病気したり、家族と離れることになったり、そう言われるといいことがあったとは言えないというと、試しに一月外してみるといいという話をしていたら、結んだはずの結び目が外れた。これははめない方がいい、こんなことは今まで無かったと店主。ちょっとこわい。

おもしろいことになってきたので、それから、試しに10分占いもしてもらった。
そして、ここで消えた編集!
なんだ?邪魔か?参った。
要は、来年から248年ぶりの冥王星が太陽と180度となり、人生最大の変化が来年、再来年にかけて起こるとのこと。
離婚のことかと思ったが、それでは今の延長線上。もっとすごいのだろう。
とにかく、それはやってくる。
心構えしておくことだ。そして受け入れることだ。
ニーチェのツアラトゥストラも話に出てきた。この人は不思議に僕にリンクしていたようだ。
超人とは凄い人ではない。人生を受け入れる人だ。もう一度読んでみよう。
子ども関係に向いていること
わりつ苦労を選ぶこと
スピリッチャルなこと
薬漬けになること(病気でなった)
子ども関係はこれから伸びるとのこと。特に国際化して需要は伸び、外国人の子供相手の仕事が向いているのではということだ。記しておく。
ブレスレットをすることで、結局逃げることにつながることが多いという。
そうだ、今、苦労してしまっている人間関係、人生の行き詰まり感、だけど、目をそらさずに受け入れることから始めるしかない。何かヒントが今日は見えた気がする。
なんの人生だ。

どんな人生だ。

ここまで来ても全くなにも見えぬ。

いよいよ混乱、いよいよ混迷。

お前は何者ぞ


4年以上ぶりにエッチした。

第二の童貞喪失や!

お相手をお願いしたのは、丸の内商事のまみちゃん。

ありがたいことです

好きになるって気持ち

気づいたら好きになってる

それは勝手な片思い

どんどん増していく思い

好きってこんなんだっけ?

忘れてた

苦しくなって告白

当然あえなく撃沈

でもそれで好きは終わりなんだっけ?

好きは変わらない

状況は同じだもん

好きなのは好き

それでいいんだよね?

年末年始は東京で過ごした。
しかし、正月までは一人で過ごすことになった。前々から、娘に会えるなら帰ると言って、その間で都合つけると言っていたが、調整してなかった。最悪、会えずに帰ることになるかもとおもったが、2日に一緒に109で買い物に行くということになったらしく、その夜に会えることになった。
クリスマスに何もあげられなかったので、何か欲しいものあれば買うとママにメールしたところ、靴が欲しいらしいということで買ってあげた。

ご飯はふぐ料理、まだ、一緒だったころから、正月はふぐ料理を食べていた。別居してからも、ふぐを食べにいったこともあった。

会った娘は見た目は昨年あった時の印象とあまり変わっていなかった。背が少し伸びたかな?160cmを超えたと言う。反抗期は少し収まってきたようで、穏やかだった。だが、喋らないのは相変わらずで、いろいろ話しかけても、積極的に答えない。ママを通してだったり、将来のことなど結局は一方的に話すことになりがちだった。
後で聞くと、何においてもママに聞き判断をあおぐらしい。結局反抗期はうまくいかなかったのか、強制的に別居によって環境を変えられたことによって自分の判断を放棄してしまったのか、少なからず影響があるのは確かだろうと心が痛くなる。

フグを食べ、娘と写真を撮った。いい写真だ。写真が成長の証拠として日々見れる唯一のものなので嬉しい。そして、もっと嬉しいのはLINEでやりとりしていいことになったこと。LINEは勝手にアカウントが出るので知っていたが、以前、受信拒否(たぶん)されたこともあり、送れないでいた。メールはほとんど見ないとの話になり、だったらと、LINEの許可がでた。帰って少し難儀したが、無事やりとりできた。おまけに、ママともLINEが開通してしまったが。

娘とは握手して別れた。次はいつ会えるのか?また、1年後なんだろうか?

翌日、ママと会い、塾の書類に書きつつ、もう丸5年が過ぎた、僕の時間はあの時から止まったままで監獄に閉じ込められているよう。心の病気もこのままではずっと治らない。前に一歩踏み出したいので、区切りたいという話をした。
途中また昔のあなたはひどい人で私がどれだけ大変だったか、なぜ出て行ったかわからないのかとエキサイトするいつものパターンもあったが、スタバだったこともあり、激しくならずに済んだ。自分の悪かったところは何度もいう通りだと認め謝ってきた。そんなことばかり言って何をどうしたいというのだ?もう何にもならないではないか?
息子は春から就職、娘は受験で塾の費用、大学のお金もかかる。これまでのようには、生活費は振り込めない。半分にさせて欲しいという話をすると困るという。困るだろうがこちらも首がまわらないのだ。出て行っといて何不自由なくというのはやはり虫が良すぎる。別に娘にかかる塾代やら大学費用は払っていくのだ。他に頼るのはもう限界がある。別れること自体は異論はなかった。

別れ際、離婚届を渡して帰ってきた。
一歩を踏み出す。

しかし、それから1ヶ月、出したとも何も言ってこない。多分、どれだけ金が取れるか計算しているのだろう。関わるのは金の話だけ、何も他に話してこない。娘の話もずつとなかった。悲しすぎる。
ブログ始めて10年経ってた。hiro39は歳からつけた。だから、気づいたら49で10年経った。この10年どうだった?苦しみは更にグレードアップして、延長戦へと続いてた。もう終わりにしよう。そう思う。