7月19日は、おじいさんの70回目の命日でした。
おじいさん園田豊二は、大日本帝国陸軍の陸軍大佐でした。
終戦間際の昭和20年7月19日、ビルマ、今のミャンマーのジャングルの中で、砲撃を受け、亡くなりました。亡骸は現地に部下が埋めてくれましたが、今もお骨は不明のまま、骨壷には石しか入っていません。
僕は当然ながら、おじいさんにはお会いしたことがありません。だけど、小さい頃から、軍服姿の写真がかざってあり、その写真にお茶をあげ手を合わせるのが日課となっていました。そんなわけで、常に身近に感じており、何かにつけ精神的に頼りにしてきたものです。そういう中で、戦争というものを身近に感じてきました。
おじいさんはなぜ死ななければならなかったのか。おじいさんがラングーンに向かったのは、もう終戦の年の5月でした。それも、戦争に行ったのではなく、現地にいた一般の邦人を救出するためでした。ビルマではインパール作戦に大敗した後、戦況は悪化し、日本軍は逃げの一手となってしまった。たくさんわたっていた日本人を安全な場所に移すため、旅団が組まれ、その旅団(独立混成百五旅団)を率いるために向かったのだ。多くが一般人のため、武器も最小限しかもたず、1カ月にわたってジャングルを行軍することになった。そんな状況なので、玉砕を叫ぶものも中にはいたが、おじいさんは決して戦わず、ただただ身を潜め、邦人救出のため、逃げることに徹した。その態度は立派だったと思っている。
亡くなったのは敵の手の伸びない川向こうに渡る前日だった。邦人の多くは逃げられたが、おじいさんは残念ながらその責務は果たしつつも彼の地に眠った。その様子が生き延びた人の手記によって知ることができたことにとてもありがたく思う。
おじいさんは徴兵されたのとは違い、職業軍人だ。戦争をした者であり、人もたくさん殺しただろう。明治から昭和初期にかけて、日本は欧米の列強と肩を並べるべく、富国強兵の名の下急速に発展させてきた。それは当時、当たり前のあるべき国の姿として、疑う余地はなかったのだと思う。そんな中では、軍人という職業は花形であり、お国のために働く人として尊敬さえされた。父が小さい頃、東京から佐賀の地元に戻った際は、それはそれは大変な歓迎ぶりで、白馬にまたがるお祖父さんが誇らしかったとのことだ。お祖父さんもそういう中で、国を思い仕事してきたはずだし、それこそ日本の平和と安定のために身を捧げると思っていたに違いない。その時は正しいことだと、やるべきことだと思っていたのだ。
人間はそれほど信じやすく流されやすい。僕たちはせめて学ばなければならない。この戦争で日本人だけでも310万人もの人が犠牲となったのは事実であり、戦争という行為はなんら肯定されるべきものではない。私たち日本人はそのようなことは二度とおこさないために、戦争を放棄し、平和憲法を掲げたはずなのです。時代背景は違うにせよ、今、戦争になりうる道を開くことは、同じ過ちをする可能性に道を開くことであり、先人たちの多くの犠牲の元に我々日本人が学んだことを無にしかねない暴挙である。
100まで生きたおばあさんは、戦後70年近くの間、ずっとおじいさんを愛し続けた。おばあさんが毎日のように読んでいたおじいさんの日記。そこには、常に妻子を思う気持ちが綴られていた。戦争などなければ、ずっと一緒にいられたのに。
おじいさんは歌が好きだったようで、文中によく出てくる。
昭和16年8月4日の日記 満州へ赴くため別れの日
渋谷駅まで見送る。妻は最後まで夫なる人の後ろ姿を見守りおりき、ああ!!お別れ、愛すべき妻子との離別、苦(?)しき別れか、はたまた悲しきわかれか。何れになるかは知らねども人生の離別、又感なきあたわず。
今日よりは省みなくて大君の しこ(醜)の御楯と出で立つ我は
草枕旅行くせなが丸寝れば いわなる我は紐とかず寝ん
古へのサキモリの歌へる歌を真に身にしみて・・・・・・
妻子よ 健やかで そして朗らかに故郷にて父母の膝下に在りて暮らせ!!ただこれを祈るのみ
夫は、父は陛下に召されて御楯となりて出で立つぞ。もしも、帰らぬことありとも悲しむな。
この後、満州から東南アジアを転戦し、一度は、帰国して再会できるのですが、再び戦地へ行き帰らぬ人となりました。
上記は万葉集防人の歌の中の歌で、国と妻子への思いの間にいる自分を防人になぞらえたようです。
この日記は昭和17年2月4日で冊子を終え2冊目に入っている。最後には啄木の一握の砂よりこんな歌も書いてった。船で移動中上海を過ぎた港で書かれていた。
平なる海に疲れてそむけたる 目をかき乱す赤き帯かな
疲れと不安を感じる歌。まさに今啄木の気持ちと同じだと書いてある。おばあさんを思う気持ちが募ったのだろうと思う。
こうしておじいさんの日記に目を通すとおじいさんが生きていたことを実感する。そして、命をつないでくれたことに感謝するのです。
僕はもちろん戦後生まれで戦争を経験したわけじゃないけれど、おじいさんのことを思い続けていることや、子供の頃から聞いた話などから、戦争を身近なことに感じている。戦争を直接知らなくても、かつて私たちにつながる先人たちが全員戦争という悲惨な経験をしたのだと、僕たちはその命をつないでいるのだと知ることで、そういう風にこれからの子供たちにも、知ってもらうことで、戦争を記憶し続ける責任を持とう!ということが大切なのではないだろうか?
僕なりに戦後70年に際して記す
