8月WOM
(このコラムは、2017年7月に執筆。Wom Bangkok8月号に掲載されたものです)
南国の夏休み
8月といえば、夏休み…というのは子どもの頃の話だろうか。
思えばタイに居を移した私達夫婦の生活は、長い夏休みのようなものだと、時折考える。
隠居には年齢的にも体力的にもまだ早いと考えているわりには、これと言って大きなチャレンジもせず、日々締め切りに追われる事もなく、何かの責任を感じることもなく、穏やかな南国暮らしを淡々と過ごしている。
これでいいのかな?と思う日もたまにある。
日本では、いい歳した大人は一年中忙しいイメージがある。
それが社会に必要とされているという意味を持ったり、価値がある事のような印象を受けたりする。
確かに一理あるだろう。
だが、忙しそうな人が全てカッコいいとも思えない。
一概に忙しそうだからといって、重要な役割を担っている、とはいえない場合もあるだろう。
単に能率が悪い、時間配分が下手、計画に無理がある、無駄な動きが多いという事も言えるだろう。
また往々にして会社のシステムの問題や人手不足が原因だったりするのではないか。
ともかく忙しい事と仕事が出来る事とはイコールではないというのが世界基準である。
それでも忙しくしていないと、そう見せていないと社会から取り残されたような気になったりするのは、いかにも日本的な思考であり、私自身も過去にはその渦の中にいた。
ごく短い期間しか雇われていた経験はないのだが、早朝から夜まで長時間拘束された上、仕事を家に持ち帰らなければ回せない程の状態で、一日の中で自分の時間など無いに等しかった。
仕事仲間が集まると「時間が欲しい」だの「目覚ましをかけずに寝たい」だの言っていたものだ。
逆に、専業主婦時代には時間を持て余し、社会と断絶したような錯覚に陥り、習い事ではなく、仕事をしたい、稼ぎたいと望んだものだ。
自らの事業を立ち上げた時は拘束こそなくなったが、それこそ収入の保証もない。
短期、中期、長期の目標を掲げ、計画を立て、遂行すべく出来る事は自分で全てやっていたし、まるまる1日中休みという日は意識しないととれず、思考は常にオンだったような記憶がある。
時間が自由になった、と感じられたのはかなり後になってからだ。
結局、人はないものねだりをする生き物なのだと思う。
タイでの毎日が、悠々自適な生活と言えば聞こえは良いが、ともすれば、時間を持て余してしまい、無駄に時が流れた事に罪悪感を抱いてしまう事もある。
何らかの成果を上げたり、結果を出す必要性があるのではないか、と焦燥に駆られたりする日もあるからだ。
そんな時私は一つの光景をいつも思い出す。
私が高校最後の夏休みに、毎日デッサンに通った画家の夫婦の家のアトリエを。
光が射し込む中でカンバスに向かう先生と、お茶を淹れ、にこやかにこちらに向かう奥さんの姿だ。
そこには穏やかな時間が流れていた。
いつしか先生の姿は夫に重なり、私はお茶を淹れるために立ち上がる。
あの夏休みが、ここにある。
この南国での終わらない夏休みは私が望んでいるものだ。
それを確認して安心する。
もちろん宿題は少しある。
夏休みが終わるまでにはやり終えなければ。。