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ヒロポタンの足跡

これは、気まぐれヒロポタンのたどった足跡(主に飲食系 その他諸々)を忠実に、そして、写実的でありながらも叙情的な文章で綴った、臨場感溢れる心温まる手記です。

 マキが本格的にベッドから起き出したのは、息苦しい程に蒸し暑い6月下旬の空気が幾分和らいだ頃だった。マキは何も身に纏わずベランダに出て、干してあったタオルケットとピローケースを部屋にしまい込むと、その足でキッチンに向かい、氷水を立て続けにコップ2杯飲み干した。
 二日酔いによる頭痛はすっかりとれたが、下腹部の張りも軽く取りたいと思いトイレに駆け込もうとしたときだった。不意に玄関のチャイムがピンポンと鳴った。モニターを覗くと、見たことがあるようなないような、野球帽を前後反対にして深く被っていた若い男が写っていた。足腰が弱く衰えたマキの両親は、生まれ故郷の長崎でひっそりと暮らしているため、このマンションに他人が訪ねてくるようなことは、先ずなかった。モニターの男を思い出せないでいるマキは誰だろうと怪訝そうに
「…はい…。」と、応答すると、
「あのう、昨日の焼き鳥屋の者ですが…。」
と、野球帽を被った男が無精ひげに覆われた口で言った。男は、
「マキさん…ですよね。昨日、ウチの店で、財布落としちゃったみたいで…。それで、財布の中を調べたら、このマンションにいるって分かったんで…。」
と言って、財布を持ってきてくれたのだった。実は昨晩、僅か1年で離婚した元夫と、行きつけの焼き鳥居酒屋『いっぱ』でばったり会い、酔った勢いも借りていじめ問題の事で意気投合し、今マンションの前まで来ている焼き鳥屋の店員も交えて大いに盛り上がったのだった。
「あーっ!」
と、マキはモニター越しに叫んだと同時に、そんなことがあったんだったと素早く思い出した。
「今行きます。」
とだけ応えると、とりあえず、ソファに投げかけてあった膝上まである白いロングTシャツをバサリと着た。そして、マキは慌てふためきながらヒールを履いて玄関の先にあるエレベーターに乗ろうとしたとき、思わず右足首をグキッとひねってしまった。気絶しそうな程激しい痛みがマキの右足を襲い、全身にあぶら汗をかいた。蒸し暑さに加え、痛みと焦りで、あぶら汗がジットリとマキのTシャツを濡らしたが、着替えに戻る余裕などなく、動揺を隠しきれないまま、マキは男の前に姿を現した。男は、
「マキさんですか。コレです。」
と、言って、カードでいっぱいにふくらんでいるマキの財布をぶっきらぼうにマキに向かって差し出した。
「あっ、すみません。…ありがとう。」
とだけ、マキはやっとの思いであいさつすると、財布が一応手元に戻った安堵感と足首の痛みで貧血を起こし、その場にへたり込んでしまった。
「大丈夫ですか!」
と、男が声をかけると、
「あ、あの…、はい…。」
と、マキは貧血で目の前が真っ白になり、気を失いそうになりながら、応えた。
男は、少々困惑した表情で、
「どうも大丈夫じゃぁないですね。部屋までオンブしていきますから。部屋、どこですか?」
と、尋ねてきた。有無を言わせない男の頼り甲斐のある言葉に、ここはひとまず従うしかなかったマキだった。背負わされると、男の身体のがっしりとした感触がTシャツ越しに伝わった。それもそのはずで、男は学生の頃、山岳部のエースだったのだ。マキは彼から落ちないよう、四肢を必死で絡みつかせた。マキは朦朧とした意識の中で、うわごとのように、男の耳元へ、
「6階の、えーと…。」
と、部屋番号を教えると、あとは二人とも無言のままエレベーターに乗り込んだ。


 慌てていて、ロングTシャツ以外何も身に着けていないマキ。彼女の年齢を感じさせない質感のある柔ら身が、筋肉に覆われた男の背中いっぱいに伝わった。マキのフワリとした胸の膨らみは、男の厚い筋肉の背中に押しつぶされていたが、膨らみの頂にある2つのしこりは、背中の中でキュッキュッとしっかり存在感を示していた。
 男がマキを背負ったまま部屋に入れると、玄関の左側にあるリビングのソファに、マキを下ろし横たえさせタオルケットを上からかけた。
「優しいのね…。」
と、マキ。
「あ、いえ…。…水とか、飲みますか?」
と、雨樋の雫が飛び跳ね返ってくるように、ごく自然に彼が応えた。
「ありがとう。…でも、今はトイレに行きたいわ。」
と、マキはそう言うと、少し落ち着いたのか、右足を引きずりながらトイレへ向かって用を足した。
 マキがリビングに戻ると、彼が、
「ほんとにゴメンなさい。ボクも借りていいですか?」
と、そわそわしながら言った。マキが、
「あ、はい、どうぞ。」
と、言い終える前に、彼はトイレへ駆け込んだ。今度は彼がリビングに戻ってくると、ほんの1秒にも満たないあっという間の瞬間だったが、マキと彼の目が合った。どちらからともなくクスッと吹き出すと、二人して声を出してケラケラと笑い合った。マキの目元口元から、田中みさ子にも似たこぼれるような優しい笑顔が弾け飛んだ。昨晩よりもずっと昔から知っているような彼の瞳、そして、彼にこれからも永遠より長く添い遂げるような直感を覚えたマキだったが、
「じゃぁ、これで帰ります。」
と言い残して、男はマキのいるマンションから、あっさり出て行った。


 この物語はフィクションで、ここに登場する人物、場所その他の名称等は架空であり、実在のものとは一切関係ない事を申し添えます。