猟奇サスペンスではない。

 

戸越銀座から家路につこうとして、ふと思いを巡らす。

「今宵は何を喰らおうか。ここらで夕メシか、それとも家で…」

などとふらふらと歩くと、軒先から小さな声が聞こえているように感じた。

 

「今夜はボクらなんていかがですか?」

 

小さき声と感じたほうへと顔を向けると、こんな貼り紙が。

 

「大粒カキフライあります」

 

以前もこの生き物、いや食物をブログで書いた。

 

牡蛎が好きだ。

 

とはいえ、食物としてではない。

死神が、カキフライとラザニアを並べて「どちから選んで最期の晩餐にせよ」と言われれば、おそらく後者。ヴァンクーヴァ―かシドニー郊外のベイエリアの生ガキなら優先権はそちらだが、興味深いのは生物としての牡蛎。

とはいえ、好きなのは寡黙な生き物だからだ。

 

貝はすべて寡黙である。

 

そう正論を唱えてはいけない。

貝によれば、自分で貝殻を動かして水中を浮遊するような不届き者(不届き貝)もいれば、近所の鮮魚店でジッと観察すると、呼吸したり潮を吹き、貝殻を閉開させる軽薄なあさりもいる。

 

しかし、牡蠣だけはひたすら沈黙を守り続ける。

しかも、あの貝殻、否牡蠣殻である。

外からに対しては強固この上ない一方で、内部では牡蛎本人が、あられもない姿でグダァ~~~と殻の上に寝そべっている。全ての労力を放棄した永久カウチ族のように。

 

そんな牡蛎の姿を眺めていると、2つの妄想に搔き立てられる。

こ奴は、殻というベビーベッド寝かされた赤ん坊か、

はたまた殻の棺桶に横たわる屍か…。

 

その脱力感は、赤児にも、命尽きようとする老人にも、どちらにも見えてくる。

そのくせ、殻は断固とした意志を持って岩にへばりついき、殻を強固に閉じているのだ。

 

ヒト以外で、これだけ強固な自己(と言っていいのか)主張と脱力感を併せ持つ生物はそうはいない。

そして、ひたすら沈黙を続ける。

まるで、その思いを強固な殻の中、その脱力感に満ちた身の中に封印しているかのように…。謎に満ちた生き物だ。

 

戦後の名作ドラマ「私は貝になりたい」は「牡蛎」ではなく「貝」なのが悔やまれる。

「沈黙」を表現するための貝は、普遍的なイメージとして正しい選択だ。

だが、「牡蠣」とすることで、沈黙の先にある何か崇高たる思考の深淵を植え付ける作用がある。

 

実際には、牡蠣は何も考えていないのだが。

 

といことで(どうゆうことかは深く問うべからず)、今夜はカキフライをいただく。

本来は牡蛎はナマが王道で、焼き牡蛎もいい。

ただし、自宅や洋食屋のカキフライは、ナマの奴らとはまた異なる食物だ。

もちろん、揚げたてを店で食すべきだが、実は、牡蠣自身の濃厚な味わいの恩恵で、レンジとオーブンを使うと、出来合いのカニクリームコロッケや、庶民の不動の味方であるコロッケさえを上回る再生力、完成度、言い換えると満足度で温められる。

 

最初はタルタルソース、最後の〆は濃厚なウスターソースがルーティン。

おっと、レモンを忘れたが、今宵は2つの味だけで堪能しよう。