いやはやなんとも凄まじい決勝だった。

前日、味の素スタジアムで、とある記者から「明日どうなります?」と振られて、「間違いないだろ」と断言はしたものの、これだけの大差になるとは。

 

選手、コーチとして長らく付き合いのある相馬朋和監督の就任1年目としては、最高の結末だったが、そのダルマさんのような巨漢に常に寄り添うように居続けた岩出雅之前監督の遺産がまだまだ残る、いや、さらに強まっているようなファイナルだった。

 

選手権連覇が9で一度途絶えた前後に、明治大が日本全国を素晴らしく網羅したスカウトチームの地道で熱心な勧誘で好素材を八幡山に送り込み、早稲田も従来以上に選手獲得に力を入れてきた。人材争奪戦で1歩後れを取った時期に、正確にはその2、3シーズンの時差で、覇権も逃したように見えた帝京だったが、そこで白旗は揚げなかった。おそらくはご自身の引き際のタイミングも見図りながら、岩出監督が戦力もしっかりと獲得した恩恵が、今季の決勝にもあったのは明らかだ。

 

もちろん、学生とはいえ素材だけで勝てるほどヤワじゃない。ダルマさんのような相馬監督が、念仏のように繰り返してきた「目の前の一瞬一瞬、1つ1つのプレーを積み上げていくことが大事なこと」という積み重ねが、この日の大勝を大きく後押ししたのは明らかだ。敗れた大田尾竜彦監督の「(相手が)何度攻撃を継続してもボールを獲れる気がしない。ファーストフェーズで、あれだけラインブレークされたのも、なかなか経験したことないですし、想定もしていなかった」というコメントが、力の差を如実に物語る。

 

就任1シーズン目で日本一監督になった相馬さんにも触れておこう。三洋電機、日本代表、パナソニック…取材者として長い付き合いになるが、最初に話をしたのは羽田空港だった。1999年ワールドカップを終えて、翌シーズンも代表の指揮を執った平尾誠二監督が、多くの若手メンバーを宮崎での代表合宿に集めた。そんな若手の中で、おそらく合宿初日から数日遅れで合流する相馬選手と同じ便だったことで、羽田の搭乗スポットまで話を聞いたのだが、合宿用の大きなバッグを肩にかけ空港内を歩くだけで、こちかが話を聞くのを憚るほどの大汗をかき、まさに口から心臓がでるほど息を切らしていたのが印象的だった。もちろんその時に聞いた話は、いつ倒れるかが気懸りでほとんど記憶にない。

 

その相馬監督率が率いたチームへの礼賛は、どのメディアでも十分すぎるほど紹介されているだろう。なので、少々脇道に外れた、このチームの強さの〝ヒミツ〟を紹介しておこう。

チームのホームページにはその名前はないが、アドバイザー役に二人の〝重鎮〟が加わっている。一人は元熊谷工高監督の塚田朗さん。そして、もう一人が元清真学園監督の渡辺聡さんだ。

 

塚田さんは、1990年の花園で熊谷工の名将・森喜雄監督が果たせなかった全国制覇を成し遂げた指導者。渡辺さんは、清真学園で栗原徹(前慶大監督)ら多くの有望選手を育て、チームを全国区の強豪に鍛えた。そのお二人が、帝京大ラグビー部をサポートしているのだ。

 

お二人は、「勉強させてもらってます」と笑うが、確かに岩出前監督と同じ日本体育大OBという繋がりもあり、常勝軍団の強さを間近で知りたいという思いもあるのだろう。だが、教師を退官している世代の高校指導者が、どこまで大学最強のチームに貢献できるのか。こんな意地悪な質問を相馬監督にぶつけると、その巨体を揺さぶり、真顔で語ってくれた。

 

「アドバイスどころか、本当に助けていただいています。高校チームを、あそこまで鍛えた先生方は、基本プレーの大切さをよく理解していて、教えるノウハウも持っている。アドバイザーなんてもんじゃなく、コーチとしても力を貸してくれています」

 

大学屈指の選手が集まり、能力もパワーも持ち合わせながら、決して基本プレーを怠らない帝京だからこそ、お二人のようなベテラン高校指導者の経験が生かされる。こんなところにも、このチームの懐の深い強さが滲み出る。

 

決勝の舞台で帝京フィフティーンが背番号の上に黒い喪章をつけていたが、その追悼の思いが捧げられたのが元監督・部長の増村昭策さんだ。

1970年創部という帝京大ラグビー部。新興チームは、関東大学リーグ戦参入がよくあるパターンだが、帝京だけが伝統校で固める対抗戦に加わることができたのは、増村先生と、盟友で黎明期の帝京も指導した早稲田大元監督の白井善三郎さんの尽力があったためだ。対抗戦に入り、この日ねじ伏せた早稲田や明治らと鎬を削ることで、いまの最強軍団のベースを築いた。

 

帝京大OBには苦い記憶だが、帝京大部員が起こした不祥事でも、当時部長だった増村先生が責任を取ることで、廃部や就任したばかりの岩出監督の引責辞任という最悪の事態までに至らなかった。まさに帝京大ラグビーの生みの親であり、チーム最大危機を救った恩人でもあった。3日に亡くなった増村先生だが、自らが東京高校から帝京に誘い、スクラムを一緒に組んで育てた相馬監督の重すぎる胴上げを、空の上から笑いながら眺めていただろう。

 

そのチームは、決勝の晴れ舞台でもコツコツ培った地力を貫いた。帝京のノーホイッスルトライで幕を開けた決勝だが、その後、チャレンジャーがセットピースから、かなりあっさりと2トライを決めてリードを奪う。

だが、帝京に焦りはない。最終学年で初めてレギュラーとして決勝の舞台に立ったPR髙井翔太のコメントが秀逸だ。

 

「焦りは全然なかったです。チームでの想定内でしたから、何も焦らず、パニックにならず、トライを取られた後の円陣でも、皆で自分たちの強みだしていこうと話しました。それに最初のトライのところで、フィジカルバトルでバチバチ体を当てて、全然勝てていると思っていましたから。結構、そこはプライドを持っていました」

 

髙井が振り返るように、ファーストトライまでのプロセスから、真紅のジャージーの1人ひとりのコンタクトが、早稲田のアカクロジャージーを1歩、また1歩と押し込む。選手権に入り判断、動きと冴えわたる早稲田のSH宮尾昌典が「コリジョンの部分で引いてしまった」と振り返るように、このエリアのバトルでやられると真っ向勝負のファイトは相当困難だ。

加えて、帝京フィフティーンのプレーがブレないことで、力関係は刻々と誤魔化しようのない状況に陥っていった。

再び敗者の言葉だ。FL相良昌彦主将は、大敗ゲームをこう振り返る。

 

「今週1週間いい準備が出来たが、ラグビーはやはり接点とセットプレーの部分で負けたら勝てないんだなと、改めて感じましたし、そこが帝京のほうが一枚も二枚も上だったと思う」

 

序盤の2トライまでの戦いぶりも、同主将は「接点で相手は2枚くらいで勝負してきたが、自分たちは3枚4枚かけていた。互角でやれているように見えてはいたが、そこが互角じゃなかったと思う」とリードを奪いながらも、厳しい戦いになることは直感していたようだ。

 

 

 

 

確かに、所謂〝お手上げ〟のような内容だ。だが、80分間を見終えた頭の中に、すこしモヤっとしたものも残る。

強いて言葉にすると、こんな感じだろうか。

 

「らしさ」って何だったのか?

 

確かに早稲田は早稲田らしいスピードで挑み、重圧を受けながらもボールを大きく動かして開始17分までに2トライを奪ってみせた。

だが、いまの帝京にも負けないフィジカルモンスターのような全盛期の明治に挑んだチームは、もっと際立ったラグビーをしていたように記憶している。

 

これも、オールドウォッチャーのノスタルジーの残片かも知れない。

だが、早稲田というチームは、圧倒的に勝目のない相手に、自分たち独自のスタイルを究極にまで拘り、突き詰め、圧倒的な相手のパワーに晒されながらも抵抗し、一瞬の間隙を突く。そこに、アカクロの美学があったのだと感じている。

 

では、21世紀の早稲田はどうだろう。

大きなエポックは、清宮克幸監督が就任した2000年代だろうか。

確かに、それ以前も高校屈指のスター選手がアカクロのジャージーで燦然と輝いた。それでも、このチームの真髄は、不揃いな少年たちが、砂が舞う東伏見のグラウンドで、尋常ではない絞りや猛練習で鍛えられ、一部はグラウンドを去り、叩き上げられた歴史にあった。

だが、この時代から、全国のいわゆる名門高校からの有望選手が大挙して集まり、圧倒的なエリート軍団として新たな時代を築いた。確かに結果を残したのだから、勝敗という観点では正解だったのだろう。チームはエリートアスリート集団と化して常に大学トップを争い、いつまでもノスタルジーを追い続けるいい歳をした大人たちは、荒ぶるを聞いて悦に浸った。

 

繰り返すが、この日のトライでも、早稲田は早稲田らしいスコアをファンにみせた。だが、80分間のゲームを、そして365日のシーズンを通して見渡したときに、このチームの本質はどこにあるのか。生きざまと言っていいかも知れない。もしくは死にざまか。

 

ラグビーの勝つための大きな要素は「強さ」に他ならない。能力がある者、パワーを持った者、デカいヤツが勝つ。しかし、東伏見の不揃いな男たちは、このセオリーに激しく抗った。力がなくても、サイズが無くても、3流高校ラグビー部出身でも、強いものが勝つ常識を覆すことができる。そう信じた男たちが過去にはいた。

学生運動のようなアバンギャルドさが、往年のワセダに滲み出ていたのは偶然ではない。社会に抗い、運命に抗い、権力に抗う。こんな校風が、間違いなく東伏見のグラウンドにも漂っていた。

 

だが、いまの都の西北を見れば、すべてが―は言い過ぎにしても、大方は見えてしまう。あれだけろくでなし学生が集まったマスコミという稼業に、いま、どれだけの学生が転がり込んでいえるのか。以前なら、まさに石を投げれば早稲田出身者に当たるほどだったが、我々の近くでも、もうライバルと言われた「実業」を標榜する大学の名のほうがよく耳にする。社会を斜の目で睨み、現実に抗うような学生は、もう都の西北では居心地が悪いだろう。

 

この現実は、上井草も同じではないか。「らしさ」に拘っていることは否定しないが、どこかで、揺るぎないほどの圧倒的な力と同じ土俵で勝負を挑んでいないだろうか。変わらないのは、学生は戦いながら自分たちのアイデンティティーを構築することだと考えている。そうであれば、圧倒的な能力だけでシーズンの8割ほどのゲームを簡単に勝てるチームに、どこまで王者のセオリーとは全く異なるスタイルで挑み、抗い、喉笛を食いちぎるような戦いができるのだろうか。

 

良くも悪くも、ラグビーはどのチームも、そのスタイルを均一化している。情報の時代だ。誰もが世界のトレンドを見ることができ、最強チームの勝ち方も、気の利いたムーヴも数秒、数分で手に入れることができる。その中で学生は極めて独自性を許される環境なのだが、それでもシーズンを重ねる毎に似たようなスタイルのチームに成っていく。結果の知れない「違うこと」よりも、概ね結末が保証されている「同じこと」のほうが、確かに安全だ。

 

だが、その先にあるのは、セオリーで管理された世界だけだろう。

強い者が正当に勝つ世界だ。

 

1950年代、ジャック・ケルアックがOn The Roadを書き上げ、1970年代にルー・リードがWalk on the Wild Sideを唄った。

どちらも惹きつけられるのは、誰か=権力によって敷かれた安定した轍ではなく、自分が行くべきだと信じた路を歩きたい、歩もうという強い衝動のためだ。

 

一つ、明確に勝者から教えられたのは、同じ土俵で勝負をしても、勝つことは相当に困難だということだ。では、敗者はどうするのか。

 

記録的屈辱がスタートとなった新たな挑戦のシーズン。ワセダがどんなWild Sideを歩むのか。

幸いなことが、このチームには少なくとも1つはある。

知恵ややり方は、優に100年を超える歴史の中に用意されている。