最近ベストセラーになった「もしドラ」が映画化され公開されました。
和田氏は「AKBのあっちゃん」とか言われても全くわからないようなつまらない人間です。。(泣)
でも、「ドラッカー」と言われればテンションがあがってしまいます。。(笑)
「ピーター.F.ドラッカー」の「マネジメント」
これは、和田氏が生まれる前に書かれた本なのですが。。
学生時代に受講していた「コーチング論」に参考文献として用いられていて、
そこから興味がわき何度も読み返したことを思い出しました。
和田氏は経営学を学んでいたわけではないのですが、この本の中には
「人や組織が成長していく上でどういった段階を踏んでいかなければならないのか。」
また、
「成長過程で起こるであろう問題点や、それに対する対応の方法」
など。。
まさに人が目標を設定し、それを達成する為の「心構え」や「掟」となるヒントがたくさん書かれています。
学生当時は「スポーツ」という分野でしか解釈できませんでしたが。
今、社会人になって「企業」という分野でもこの本から得た「考え方」が役立つ機会も多々あります。
(もともと経営学の本なので当然ですが。。(笑))
でも、ここにきてやはり「スポーツ」。
言い換えれば
「勝利を勝ち取る為の術」
「目的を達成する為の術」
として改めてその「効力」を発揮しています。
和田氏が「コーチング」する際の「基本姿勢」の一部は確実にここから影響されています。
「マネジメント」の「人は最大の資産である」
という項目の「誤解と恐れ」という項目から抜粋
組織は「人は最大の資産である」ことを十分理解しその重要性を説くが、実際に行動に移すことはほとんどない。
という前置きの後に、その理由としてこう書かれている。
→
働くものに主体的に成果をあげさせるという課題を直視しない第一の、そして主たる原因は、権限と権力の混同である。
マネジメントは、肉体労働者からにせよ、知識労働者からにせよ、責任を持ちたいとの要求に対して、それを権限の放棄を要求するものと誤解して抵抗する。自らの権限を危うくすると誤解する。
権限と権力は異なる。マネジメントはもともと権力を持たない。責任を持つだけである。その責任を果たすための権限を必要とし、現実に権限を持つ。それ以上の何物も持たない。
権限と権力の混同によって、マネジメントが自らと自らの組織にとって好ましくない結果をもたらした例は珍しくない。→中略
要は「トップマネジメントの権限は、分権化によって増大する」とある。
さらに、日本企業もIBMもツァイスも、働くものに主体的に成果をあげさせる事によって、マネジメントの権限を強化することができることを知っていた。なぜならマネジメントは、部下に成果をあげさせることによって、自らの仕事に専念できるからである。とも言っている。
そして、トップマネジメントが分権化に抵抗した理由は、もうひとつあると記してある。
分権化が課すことになる高度の要求を恐れたのである。働く者や職場コミュニティに責任を持たせることを恐れるマネジメントの抵抗も、理由は同じだった。責任を与えられた者は高度の要求をする。マネジメントに対して完全を要求するのではない。上司も人間であることを知っている。しかし、自らの仕事に責任を持つものは、マネジメントが報酬にふさわしい仕事をすることを要求する。
人のマネジメントとは、人の強みを発揮させるさせることである。
人は弱い。悲しいほどに弱い。
問題を起こす。手続きや雑事を必要とする。人とは、費用であり、脅威である。
しかし人は、これらのことのゆえに雇われるのではない。人が雇われるのは、強みのゆえであり能力のゆえである。
組織の目的は、人の強みを生産に結びつけ、人の弱みを中和することにある。
←
この文章を和田氏は都合のいいように(笑)こう解釈している。
ドラッカーがいう
「マネジメントする人間」を「コーチ(指導者)」として。
「マネジメントされる人間」を「プレーヤー」として置き換える。
まさに、「もしドラ」と同じである(笑)
日本には「師弟関係」といったものが存在する。
誤解や批判を覚悟して書かせていただくと。
この関係は全くのナンセンスである!
「師」のほうが、「弟子」より優れているのなら「師」がプレーヤーであるべき。
「師」が「師」であり続けようとする以上
「弟子」は「弟子」のままであり続けなければならない。
これは、「師」が「権力」を保つ為に「弟子」の成果を認めない方向に進む可能性を秘めている。
「弟子のくせに生意気だ!」
みたいな(笑)
もちろん、「弟子」の成果が「師」の向上心の維持へとつながることが望ましいのであろうが。。
本来「弟子」の躍進そのものが「師」の評価そのものであるべきである。
「師」が「弟子」の躍進ゆえに「師のマネジメント能力」のレベルを超える高度の要求が生じた際、その立場への「恐れ」を案じることもあるかと思うが、「弟子」の躍進が「師」のマネジメントによるものだという事実があれば、その「恐れ」自体そもそも無意味なものであるといえるし、その時点で一定の目的が達成されたことの何よりの証拠であるといえる。
後は、次の共有する目的を見つければいい。
そもそも、それ以前に「組織」は、プレーヤーの成果が組織の生産性につながるものであるよう組織化されていなればならない。
和田氏はコーチとしてプレーヤーに常にこう話しています。
この組織(チーム)は「目的の共有」が大原則である。と。
故に互いが「依存」することなく、各々が共有する「目的」のために「責任」を果たす。
コーチからの「指示」や「指し示す方向性」は、一定の「権限」のもと、常にプレーヤーの躍進の為、つまりは「共有する目的の達成の為」に発せられて、プレーヤーはその方向性が「自分の成果の為」であることを理解し「指示」に対して責任を果たす。
現在の日本の政治を見ても、この「権力」と「権限」の解釈の錯綜が見て取れます。
指導者には方向性を示す「権限」が与えられるが、「権力」を持ったわけではない。
最近では民主主義の下「権限」を与えられたものをしのぐ「権力」が存在していることが危惧されている。
方向性は共有する目的の達成の為に指し示されるべきで、個人や一部の人間の思想や利益の為に強引な求心力を使用されるのであれば、それはもう「権力」というか「暴力」である。
「権力」とは達成すべき目的を共有している組織においてその存在の必要性は無い。
話は逸れましたが。。
コーチはプレーヤーを躍進させる為に存在する。
コーチはプレーヤーの上に立つことにその存在意義があるのではなく、
プレーヤーの出す結果、成果の向上に必要であると認められたとき、
また、その結果、成果がでている時にその存在意義や価値が認められる。
人は「悲しいほど弱い」ので、プレーヤー一人では躍進の速度が鈍る。
故に、「コーチ+プレーヤー」という組織が必要となる。
その上で、コーチとプレーヤーとの「分権化」が重要だと和田氏は考えています。
長々とすみません。
和田氏は「AKBのあっちゃん」とか言われても全くわからないようなつまらない人間です。。
でも、「ドラッカー」と言われればテンションがあがってしまいます。。(笑)
「ピーター.F.ドラッカー」の「マネジメント」
これは、和田氏が生まれる前に書かれた本なのですが。。
学生時代に受講していた「コーチング論」に参考文献として用いられていて、
そこから興味がわき何度も読み返したことを思い出しました。
和田氏は経営学を学んでいたわけではないのですが、この本の中には
「人や組織が成長していく上でどういった段階を踏んでいかなければならないのか。」
また、
「成長過程で起こるであろう問題点や、それに対する対応の方法」
など。。
まさに人が目標を設定し、それを達成する為の「心構え」や「掟」となるヒントがたくさん書かれています。
学生当時は「スポーツ」という分野でしか解釈できませんでしたが。
今、社会人になって「企業」という分野でもこの本から得た「考え方」が役立つ機会も多々あります。
(もともと経営学の本なので当然ですが。。(笑))
でも、ここにきてやはり「スポーツ」。
言い換えれば
「勝利を勝ち取る為の術」
「目的を達成する為の術」
として改めてその「効力」を発揮しています。
和田氏が「コーチング」する際の「基本姿勢」の一部は確実にここから影響されています。
「マネジメント」の「人は最大の資産である」
という項目の「誤解と恐れ」という項目から抜粋
組織は「人は最大の資産である」ことを十分理解しその重要性を説くが、実際に行動に移すことはほとんどない。
という前置きの後に、その理由としてこう書かれている。
→
働くものに主体的に成果をあげさせるという課題を直視しない第一の、そして主たる原因は、権限と権力の混同である。
マネジメントは、肉体労働者からにせよ、知識労働者からにせよ、責任を持ちたいとの要求に対して、それを権限の放棄を要求するものと誤解して抵抗する。自らの権限を危うくすると誤解する。
権限と権力は異なる。マネジメントはもともと権力を持たない。責任を持つだけである。その責任を果たすための権限を必要とし、現実に権限を持つ。それ以上の何物も持たない。
権限と権力の混同によって、マネジメントが自らと自らの組織にとって好ましくない結果をもたらした例は珍しくない。→中略
要は「トップマネジメントの権限は、分権化によって増大する」とある。
さらに、日本企業もIBMもツァイスも、働くものに主体的に成果をあげさせる事によって、マネジメントの権限を強化することができることを知っていた。なぜならマネジメントは、部下に成果をあげさせることによって、自らの仕事に専念できるからである。とも言っている。
そして、トップマネジメントが分権化に抵抗した理由は、もうひとつあると記してある。
分権化が課すことになる高度の要求を恐れたのである。働く者や職場コミュニティに責任を持たせることを恐れるマネジメントの抵抗も、理由は同じだった。責任を与えられた者は高度の要求をする。マネジメントに対して完全を要求するのではない。上司も人間であることを知っている。しかし、自らの仕事に責任を持つものは、マネジメントが報酬にふさわしい仕事をすることを要求する。
人のマネジメントとは、人の強みを発揮させるさせることである。
人は弱い。悲しいほどに弱い。
問題を起こす。手続きや雑事を必要とする。人とは、費用であり、脅威である。
しかし人は、これらのことのゆえに雇われるのではない。人が雇われるのは、強みのゆえであり能力のゆえである。
組織の目的は、人の強みを生産に結びつけ、人の弱みを中和することにある。
←
この文章を和田氏は都合のいいように(笑)こう解釈している。
ドラッカーがいう
「マネジメントする人間」を「コーチ(指導者)」として。
「マネジメントされる人間」を「プレーヤー」として置き換える。
まさに、「もしドラ」と同じである(笑)
日本には「師弟関係」といったものが存在する。
誤解や批判を覚悟して書かせていただくと。
この関係は全くのナンセンスである!
「師」のほうが、「弟子」より優れているのなら「師」がプレーヤーであるべき。
「師」が「師」であり続けようとする以上
「弟子」は「弟子」のままであり続けなければならない。
これは、「師」が「権力」を保つ為に「弟子」の成果を認めない方向に進む可能性を秘めている。
「弟子のくせに生意気だ!」
みたいな(笑)
もちろん、「弟子」の成果が「師」の向上心の維持へとつながることが望ましいのであろうが。。
本来「弟子」の躍進そのものが「師」の評価そのものであるべきである。
「師」が「弟子」の躍進ゆえに「師のマネジメント能力」のレベルを超える高度の要求が生じた際、その立場への「恐れ」を案じることもあるかと思うが、「弟子」の躍進が「師」のマネジメントによるものだという事実があれば、その「恐れ」自体そもそも無意味なものであるといえるし、その時点で一定の目的が達成されたことの何よりの証拠であるといえる。
後は、次の共有する目的を見つければいい。
そもそも、それ以前に「組織」は、プレーヤーの成果が組織の生産性につながるものであるよう組織化されていなればならない。
和田氏はコーチとしてプレーヤーに常にこう話しています。
この組織(チーム)は「目的の共有」が大原則である。と。
故に互いが「依存」することなく、各々が共有する「目的」のために「責任」を果たす。
コーチからの「指示」や「指し示す方向性」は、一定の「権限」のもと、常にプレーヤーの躍進の為、つまりは「共有する目的の達成の為」に発せられて、プレーヤーはその方向性が「自分の成果の為」であることを理解し「指示」に対して責任を果たす。
現在の日本の政治を見ても、この「権力」と「権限」の解釈の錯綜が見て取れます。
指導者には方向性を示す「権限」が与えられるが、「権力」を持ったわけではない。
最近では民主主義の下「権限」を与えられたものをしのぐ「権力」が存在していることが危惧されている。
方向性は共有する目的の達成の為に指し示されるべきで、個人や一部の人間の思想や利益の為に強引な求心力を使用されるのであれば、それはもう「権力」というか「暴力」である。
「権力」とは達成すべき目的を共有している組織においてその存在の必要性は無い。
話は逸れましたが。。
コーチはプレーヤーを躍進させる為に存在する。
コーチはプレーヤーの上に立つことにその存在意義があるのではなく、
プレーヤーの出す結果、成果の向上に必要であると認められたとき、
また、その結果、成果がでている時にその存在意義や価値が認められる。
人は「悲しいほど弱い」ので、プレーヤー一人では躍進の速度が鈍る。
故に、「コーチ+プレーヤー」という組織が必要となる。
その上で、コーチとプレーヤーとの「分権化」が重要だと和田氏は考えています。
長々とすみません。