生きるということ、死ぬということ | hiroのブログ

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最近祖母の老衰が進み、「死」というものを現実味を持って正面から見つめ、そして考える時間が多くなった。

そのなかである記事が目に付いた。

僕の解釈で補足しつつ、一部を要約して引用させて頂くと次の通り。

===== 引用 =====

「呼吸」の「呼」とは「吐く息」のこと。「吸」とは「吸う息」のこと。

「呼吸する」とは「吐いて」それから「吸う」こと。その繰り返し。

決して「吸って」から「吐く」のではない。

赤ん坊が、母の胎内からこの世に生れ出て上げる第一声の産声は、この世に「息を吐き出す」ときの声。

そして「吐き出す」から次の息が「吸える」。「吸える」から「生か」される。

一方、産声に対して、臨終最後の息は「引き取る」という。「吐き取る」ではない。

最後の息は「吸い込む」。

「吸い込む」けど「吐けない」。「吐けない」から「死ぬ」。

===== 引用終わり =====


人間が「生きる」ということ、そしてそれを支配する自然の摂理は、「吐いて(output)」それから「吸う(input)」(言い方を変えると、「吐く」ために「吸う」)という流れになっていると思う。

しかし、現代社会は、具体的な使う目的(output)ありきでそのために必要な分だけ金銭を稼ぐ(input)ことを考えたり、食べる(output)ために必要な分だけ家畜の命をいただく(input)というふうにはなっていない。

全く逆。

こんな状況では、「生きる」ために「生」を受けた現世で、果たして真に「人間を生きる」ことが可能だろうか。

みんな死にもの狂いになって、金・権力・地位・その他諸々を「吸っ」て「溜めこむ」ことばかりを考えていて、何のために「吸って」いるのかを忘れている。

「吐けなく」なったとき・・・それは「死」を意味する。

だからみんな生きながらにして死んだような酸欠の息苦しい毎日のなかでもがき苦しみ、精神を病んでいく。

一度思い切り肺が空になるまで「吐き」きってしまって、人間としての幸福を味わうためのごく自然な第一歩を踏み出してみてはどうだろうか。

「『吐く』ために『吸う』」、「『吐く』ために『吸う』」、・・・

この呪文を毎日唱えてみるだけでも、軌道は修正されるかもしれない。

以前ブログで「インプット vs アウトプット」というのを書いたことを思い出した。