前回③からの続きです👟
普通なら、このアングルで写真を撮るだろうに…
河川工事の写真を撮るなんて
12:53
気を取り直し前に進みましょうd( ̄  ̄)
旧水戸街道は、笠間方向に進みます。
旧町名が石碑に刻まれていました。
残せるなら、旧町名のままで良かったと思うのですが、お役所仕事は解りません(><)
この辺りから、私の行動も支離滅裂感があります
ファミリーマートを左折して、常陸國総社宮へ向かって行きました。
天之宮正一位稲荷神社
国府公園の南側にある府中七稲荷の一社です。
1992年に現在地に移転して、新たに造営されたそうです。
国府公園に沿って歩いていたら、清涼寺境内へ入っていましたσ(^_^;)
曹洞宗 興国山 清涼寺
創建は元徳二年(1330)で大掾高幹が開基です。
当初は尼寺ヶ原にありましたが、文明十二年(1480)頃に現在地に移転しました。
文亀元年(1501)曹洞宗に改宗して、大本山永平寺の道元禅師に請うて開山します。
また、佐竹氏の縁の寺として、佐竹氏の家紋である「五本骨扇に月丸」を使用しています。
清涼寺 案内板
思った以上に歴史を感じる御寺でしたd(^_^o)
目的とする常陸國総社宮へ向かう途中で、珍しいトタン張りの長屋門が現れました∑(゚Д゚)
此方は正統派に属する長屋門ですねd(^_^o)
境内御案内
迷う事なく本殿の横から拝殿に向かいました
13:25
常陸國總社宮 由緒
拝殿
昭和39年に参拝者の失火により焼失した茅葺の拝殿に代わり、昭和60年に復興奉賛会により新造された拝殿です。
左右の狛犬は筑波山、霞ヶ浦を見渡せる西側に面しています。
※参拝者の失火って何でしょうね
御神木
樹齢約600年、樹高約17m、樹周約4mで県下1の大楠です👍
黒くなっているのは、昭和39年の火災で類焼したためですが、幹の周囲から蘇生して現在も力強い生命を保っています
日本武尊腰掛石
東征の際に腰掛たと伝わる石
手塚治虫さんの「火の鳥ヤマト編」と、常陸國總社宮のコラボですねd(^_^o)
他にも御朱印帳や御守り、絵馬等に手塚氏のキャラクターが使用されています。
※手塚良庵は、手塚治虫の曾祖父になります。
常陸國府中藩医の家に生まれ、緒方洪庵の適塾に入門して医学と蘭学を学び、福沢諭吉らと親しむ。
幕府歩兵屯所付医師となり、維新後は大日本帝国陸軍医となる。
西南戦争に従軍の際に赤痢に罹り長崎陸軍病院にて死去されたそうです。
墓所は、先程行った清涼寺にあります。
左手は参集殿•社務所
昭和60年に1250年記念事業としてコンペを経て竣工されました。
右手は神楽殿
縦横二間半の舞台構造で、昭和60年の造営されました。
銀色の龍が、御神籤結び所になっていました。
随身門
天正十六年(佐竹義宣らの常陸府中攻めにより、石岡市谷向に一時遷座したと伝わります。
随身門は、本殿と同じ寛永四年頃に造営された境内最古の建造物の一つで、遷座時の仮宮の木材を用いたと云われています。
門内には1対の随身像が置かれています。
随身門と随身像 説明板
境内社
酒造の神様を祀る「松尾神社」、縁結と藍染の神様「愛染神社」、火伏せの神様「愛宕神社」と「厳島神社」、氏子町内の1つ香丸町「稲荷神社」、そして府中三光宮の1つ「星宮神社」です。
随身門を参道側より📸
手水舎
禊場とおみたらし 説明板
おみたらし道
此方から禊場へ向かうみたいですが、先に向かいました。
大鳥居と表参道
拝殿前から宮下へ続く旧参道に対して、旧国えい参道は大正の造営の際に整備されました。
一ノ鳥居は、稲田産の花崗岩を汽車で運んで工事を行い大正4年に竣工されました。
私は順番が逆になりましてが普通の方は、此方から随身門に向かいます。
13:34
煉瓦造りの灯篭らしきモノに「敬神」の文字が表示されています。
云われは解りませんが、大正の造営の際に竣工されたのでしょうか?
参拝順路が逆になりましたが、此方から失礼します🙇♂️
醫院がありました。
板塀に囲まれた立派な家屋です👍
あら(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾
楽しみにしていたのですが…工事中🚧
石岡の陣屋門 説明板
青屋神社
青屋神社 説明板
国衙跡を探してウロウロしていたのですが、解らなかったので諦めました
此方の石碑のある場所は、中世府中城の土塁であり、昭和初期には石岡小学校の奉安殿が建てられていたそうですよ。
石岡小学校内にあるので入るのは憚られましたが、休日で校庭が駐車場で開放されていたので失礼しました
常陸のみやこ 説明板
13:59
陣屋門の後ろの建物を壊しているみたいでした😩
浄土宗 雷電山 西向院 照光寺 山門
大掾高幹を開基とし、良善上人を開山として応安七年(1374)鹿の子の地に創建されたと伝えられる。
第十二世良夢上人のとき、大掾氏が佐竹義宣に滅ぼされ寺院は兵火によって焼失しました。
その後、佐竹義宣の叔父佐竹左衛門尉は、円通寺より称往上人を招いて、第十三世として寺の再興をはかり鹿の子よりこの地に移しました。
敷地はもと府中六名家の一つ、香丸氏の跡地と云われています。
鬼瓦が見事でした
寺紋は松平家の三葉葵ですが、以前は平氏の菩提寺に因んで九耀星でした。
照光寺文化財 説明板
本堂
常陸府中藩松平家墓所
府中藩は初代水戸藩主徳川頼房の五男頼隆を祖とします。
元禄十三年(1700)頼隆は、幕府より陸奥国岩瀬郡長沼など18ヶ村と常陸国新治郡府中など19ヶ村の合計二万石を与えられ、「御連枝」と呼ばれる水戸徳川家の分家四藩(高松•守山•宍戸•府中)の一つとなった。
府中松平家は本家と同じく定府制であり、上屋敷は小石川にありました。
代々播磨守を世襲し、十代頼策の時に明治維新を迎えます。
歴代藩主の墓地は小石川宗慶寺にあったが、大正十五年(1926)に照光寺に移されました。
欄間の透し彫り彫刻も見事でしたd( ̄  ̄)
14:07
照光寺 鐘楼と観音像
駅に向かいます👟
平松理容店店舗兼住宅
昭和3年に建てられた木造二階建ての看板建築です。
三和土に大鋸屑を混ぜた床は大変珍しい物で、コリント様式風のアカンサスの葉の天蓋や理容鏡、理容椅子など昭和4年の大火を免れた建築当初の姿が良く保たれています。
いささか疲れたので「早く家に帰りたい。」そんな我儘な事を考えていたので、全く看板建築の事は意識していない中で、何故か撮っていました💦
この先で水戸街道に合流します
水戸街道沿いにある、パンとケーキの店ヴィオレの辺りが、府中宿本陣跡だったそうです。
そんな事を考えていたので、看板建築を意識していませんでした。
石岡市の看板建築を意識したのは、次回の水戸街道歩きの時でした
14:22
石岡駅が見えて来ました
石岡市マンホール
通称「石岡のおまつり」と呼ばれ関東三大祭の一つに数えられる「常陸國總社宮例大祭」の幌獅子がデザインされています。
他の二つの祭は、千葉県の「佐原の大祭」と埼玉県の「川越まつり」ですね👍
川越まつり以外は行った事が無いので、以前より「石岡のおまつり」と「佐原の大祭」は機会があれば行ってみたいと考えていました。
「石岡のおまつり」山車
「常陸國總社宮例大祭」は、創建千年を誇る古社常陸國總社宮の最も重要な祭礼に位置付けられ、毎年9月15日と敬老の日を最終日とする三連休に行われます。
勇壮な幌獅子のほか、菊花紋に大神輿や絢爛豪華な山車など40数台が市内を巡行する様はまさに圧巻だそうです
久々に沢山歩きましたd(^_^o)
これくらい歩ければ、次回でゴールの水戸まで行けるかな?