令和6年1月8日に荒川沖宿まで歩いた水戸街道①からの続きです。
水戸まで50kmを切ったみたいです♪
今日を含めて後3回で水戸街道を踏破出来そうな気がします。
陸橋に中村南の文字が見えています。
中村宿は近そうですね👍
10:25
国道6号線から中村南4丁目の交差点で右斜めに旧水戸街道は入ります👟
何と言う事のない道なのですが、旧水戸街道と思うと感慨深いものがあります。
(同じ旧道でも、拡張された国道とかだと全くと言って良いほど何も感じません。史跡が遺っていれば別ですけど😕)
10:44
石仏石塔群 甲州街道でよく見掛け、お気に入りの双対道祖神も右端にありました。
ブログを書くまで存在に気が付いていませんでした
【中村宿】
中村宿は本陣1と問屋が二軒で旅籠も数軒の小さな宿場だった様で、現在では宿場の面影はあまり感じませんでした。
東小学校の交差点で国道6号線を渡ります💨
この右手辺りから(中村宿の西側の外れに、応永二年(1395)創建と云われる中村西根の鹿島神宮があります。
行けていませんが、その辺りを鎌倉街道が水戸街道と平行した場所にあった様です。
先達の方のブログを拝見させて頂きましたが、鎌倉街道は古道の趣きが感じられて、行かなかった事を少し後悔しています。
花室川
国道6号線を越えて直ぐの場所にあります。
大川橋で渡ります。
真言宗 豊山派 土浦大師 不動尊 大聖寺
【縁起】
寺号は「羽黒山 今泉院 大聖寺」といい、その寺歴は平安時代まで遡るそうです。
長徳元年(995)醍醐寺成尊僧都により「今泉寺」として現在よりも東500m先の永国の中央、亀井墓地近辺に開山されたのが縁起だと伝えられています。
江戸時代に幾度の火災があり、貞享二年(1685)には堂宇を消失したが、同年に土浦藩主 松平信興が山門を寄進するなどして、貞享四年(1687)には再興されました。
やがて土浦藩は土屋氏に城主が替わり、土屋真尚以降歴代の城主から寺領を安堵されました。
延享二年(1745)には門末合わせて百六十ヶ寺を擁する檀林所格の本寺として大名と同格の格式を持つ寺院として栄え、また同年十年には伝法灌頂道場も開設しています。
しかしながら、文久三年(1863)に修復なったばかりの本堂やその他の伽藍をまたしても焼失して明治維新を迎えました。
歴代の住職や檀越が悲願としていた本堂の再建は昭和60年でした。
昭和62年に北関東三十六不動尊霊場第三十一番札所になり、客殿、護摩堂、太子堂等伽藍が準備されました。
11:00
山門
薬医門形式で貞享二年に土浦城主 松平信興より寄進された物で、平成七年に解体修復工事が行われました。
切妻、茅葺、化粧屋根裏造りです。
男厄除坂
大聖寺内・四国八十八箇所ミニ霊場 案内図
ミニ霊場を全部廻る時間も大量もありません
四脚門
創建は応安二年(1369)の祐尊代と伝えられています。
武家屋敷の門に相応しい簡素な造作で、部材の古さ等から江戸初期以前の古調を保っています。
平成七年に解体修復工事が行われた。
切妻、茅葺です。
太子堂
江戸中期に建立された太子堂の老朽化が甚だしく、平成三年に再建されました。
鐘楼堂
天和三年(1683)造立の梵鐘が昭和19年に応召されました。
昭和33年再建されました。
鐘を撞きました。
良い音が響きました♪
四国八十六番 志度寺
この様な形で八十八箇所ある様です。
本堂
国道6号線(土浦バイパス)を越えて土浦宿へ向かいます👟
永国交差点で国道354号線に合流します。
旧水戸街道沿いの旧家
11:46
旧水戸街道は、この先にある「医療センター」交差点を直進します。
旧家の門が交差点にありました。
先達の方のブログだと門の右手にも旧家があった様ですが…
下高津小学校 旧校舎跡地
子供達がいなくなった跡地を見ていると、切ない気持ちになりました。
下高津の道標
坂東街道との分岐点にあります。
享保十八年(1733)東崎町女人講の人々によって建立されました。
道標には、「右 江戸道」「左 なめ川 阿ば道」と刻まれています。
現在は、左へは霞ヶ浦医療センターがあるので行けません。
11:54
愛宕神社文化財 説明板
鳥居
享保五年(1720)銘が入っています。
拝殿
後方に本殿を接して設置されています。
屋根は茅葺の入母屋造りであり、丁字形の二棟を持ちます。
今回は茅葺き屋根の建物が多く見られて大満足です
愛宕神社と隣接する常福寺の境内より📸
樹齢400年と云われる銀杏と愛宕神社
新義真言宗 東光山 医王院 常福寺
本堂
平安初期に最澄の高弟最仙の開基と伝えられています。
常福寺の文化財 説明板
塀に沿って多くの石仏墓石が∑(゚Д゚)
12:06
銭亀橋より桜川と筑波山を📸
土浦宿に入りました♪
③に続きます💨