令和5年12月11日(月)
水戸街道も半年振り…と言うか、街道を歩くのが半年振りになりました(−_−;)
随分と間が空いてしまいましたが、気合いを入れて再開です👟
7:49
取手駅より出立しますd( ̄  ̄)
先ず向かったのが、長禅寺です。
山門の横に「取手ゆかりの人びと」の掲示板がありました。
確かに縁がある方々だと思いましたが…
「袖触れ合うも多少の縁」と云う言葉が浮かんで来ました。
本多重次の菩提寺があるのは知りませんでした。
山岡荘八の「徳川家康」を読んだ時以来、大好きだった武将だったので楽しみです。
今年の…もとい、昨年の大河ドラマの脚本は、石川数正や井伊直政、酒井忠次に本多重次のキャラを被せて本人は登場させていないので納得していません。
本多重次は、白黒をハッキリさせる人物だったと思います。
「どうする家康」という曖昧なタイトルでは、脚本家としては使い辛いキャラなので致し方ないのかも知りませんね。
(ツレに誘われて、長篠の戦い辺りから再び大河ドラマを観ていました。色々と突込み所満載ですが、俳優さん達の熱演は感じる所がありました)
7:57
長禅寺
創建は承平元年(931)平将門と伝えられています。
山門は見えるのですが、クローズされていて入れません(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾
平将門も1976年の大河ドラマ「風と雲と虹と(海音寺潮五郎)」を観て以来の好きな偉人だったので残念でした
本陣通り沿いにある取手市老舗「新六本店」と「田中酒店」
新六本店は創業明治元年の奈良漬の店です。
江戸時代は造り酒屋で、物流の中継地だった利根川で舟運業も営んでいたそうです。
ある日の事、店主の田中新六さんが酒粕と地元産の胡瓜や瓜を使って奈良漬にしてみたところ、親戚やご近所で「大好評」となりました。
そうして奈良漬の製造を新事業として進め、明治の始まりと共に「新六の奈良漬」として創業を始めたそうです。
田中酒造は明暦元年(1655)創業です。
銘酒「君萬代」は、陸軍近衛兵演習が行われた際に明治天皇が行幸されました。
利根川を渡り、牛久の行在所に向かう途中に喉の渇きを訴えられました。
造り酒屋の水なら大丈夫だろう。と、云う事で差し出されたのが此方の井戸水でした。
明治天皇はお気に召された様で滞在中は、此方の井戸水を運ばれたそうです。
その功により下賜されたのが「君萬代」の銘柄です。
何方も田中姓なので血縁関係があるのではないかと思いましたが、詳しい事は判りませんでした。
ブロ友さんは12年前に水戸街道を歩かれた時に其々の店で購入されたそうですが、まだ開店前なので諦めました(><)
8:07
旧取手宿本陣 染野家住宅案内板
表門
桟瓦葺の一間薬医門で、建築は文化二年(1805)と推定されます。
主屋や土蔵の解体修理に伴い解体され、平成8年に復元されました。
公開日は、金、土、日曜日だけの様です
旧取手宿本陣染野家住宅 説明板
※此処まで何処もかしこも閉店状態で、また来ないといけないのか?と、思うと取手駅を出た時の気持が少しだけ萎えていました
本陣の周囲を未練がましくウロウロと歩きパシャパシャと📸
怪しい奴だと思われても仕方がないですね(−_−;)
裏口より主屋と表門を📸
とても良い感じですd( ̄  ̄)
次回、再訪する事にして先に進みます👟
取手総鎮守 八坂神社
鳥居は宝永四年(1707)建立
八坂神社 説明板
御神木 大銀杏
樹齢300年以上だそうです。
境内の灯籠は寛保三年(1743)、宝暦七年(1757)、文化四年(1816)の物がありました。
拝殿
天保三年(1832)建立
本日の無事帰還と、孫娘の合格祈願を主にお願いしました。
水戸街道の旧家①
旧家② 染野屋半次郎
本陣の染野家と関連があるのかな?
創業は文久二年(1862)の豆腐屋さんでした。
旧家③
旧家④
取手小学校交差点を左へ向かいます👟
ブロ友さんの写真と比較して見ると、随分と景色が変わった様に思いました。
何となく安心する街道幅😮💨
8:42
まだ新しい水戸街道 道標
江戸与利十里八丁と彫られています。
道標のすぐ先に阿夫利神社の社標がありました。
阿夫利神社 鳥居
阿夫利神社 拝殿
9:02
浄土宗 本願寺
参拝を終えて、境内を📸
境内より本堂を📸
開山堂
参道右手に六地蔵尊(造立年不詳)と、本多作左衛門重次が書いた有名な「一筆啓上」の手紙の碑があります。
一筆啓上 火の用心
お仙泣かすな 馬肥せ
長篠の戦いの折に妻に送った手紙といわれています。
一筆啓上とあるので、妻を尊重しているのが伺えますね。
火の扱いに気をつけよ。
お仙(嫡男仙千代)を大切にせよ。
馬の手入れを頼む。(戦国時代は貴重だったので)
原文は「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥せ かしく」だったそうです。
知らなかったのですが、「かしく」は女性が手紙の末尾に使う「かしこ」ですが、当時は男性も普通に使っていた様です。
お仙は後の本多成重です。
松平忠直(結城秀康の嫡男)の付家老となり丸岡四万石を領して若年の忠直の補佐をしました。
忠直が改易された元和九年(1623)には一旦江戸幕府に召し返されましたが、翌年の寛永元年(1624)には初代越前丸岡藩四万六千三百石の譜代大名に取り立てられています。
結城秀康の母、お万の方は築山殿(家康の正妻)の奥女中だった頃に家康の手付けとなり産まれたのが結城秀康でした。
築山殿からは承認されなくて(寧ろ疎まれていた)難儀していた時に手を差し伸べたのが本多重次でした。
歴史の縁を感じました。
本多重次のエピソードはとても書ききれないので、これくらいで止めておきます
浄土宗 本願寺 説明板
山門
丸木柱の四脚門で屋根は切妻造瓦葺
写真の順番は逆になりましたが、満足して街道に戻る事にしました(^◇^;)
街道は続きます👟
9:30
此方にも新しい水戸街道道標がありました👍
隣の木標には「保存樹木サカイチ」と記されています。樹齢200年を越えています。
9:31
道を間違えたかな?と思うほどに直線が続きます😅
土橋横に水戸街道 道標を見つけて一安心です
来應寺七丁 水戸十八里 江戸二十一里と刻まれています。
水戸街道も半分以上は歩き終えた様ですd(^_^o)
後1回続きます💨