江尻宿に入りました👍

15:37

浄土宗 市中山 長光院

江浄寺(寺名は、江尻宿にある浄土宗の御寺だそうです。そのままですね💦)

開山 永正元年(1504)

徳川信康公菩提寺と山門の横の寺名の石碑に彫られています。

私的には、徳川信康だとしっくりとしません。

織田信長によるパワハラにより亡くなった時の松平信康の方がしっくりときます。

岡崎三郎信康侯御宝塔

遺髪が納められています。

本堂

参勤交代で西国大名が江戸を往復する時には、行列を一旦止めて必ず参詣したそうです。

恋塚

恋塚の説明文

鬼瓦

三代将軍 徳川家光より、江浄寺の寺紋に「葵の御紋」の使用許可を得ました。

江尻宿寺尾本陣跡

昭和20年7月7日空襲により焼失しました。

代々、寺尾与右衛門を名のり勤めたそうです。

寺尾本陣の沿革

子孫の方が建立された様ですd(^_^o)

てか…個人任せで、行政は何もしてないのかな?

明治天皇が明治元年十月と明治二年三月に行幸され、此方の本陣が行在所となりました。

江尻宿の地図が描かれた立派な説明板がありました👍

昭和59年1月に製作された様ですね。

その後、半世紀近く何もしてないのかな?

(文句が多いですね(−_−;))

魚町稲荷神社

境内には「明治天皇御東行御遺跡碑」もありました。

一里塚とか本陣と同様に、明治天皇関連の碑を見ると条件反射的にニンマリとしてホッコリした気持ちになります😌

魚町稲荷神社 説明板

拝殿の横に、神社には不似合いなサッカーボール⚽️の石碑がありました( ̄O ̄;)

1999年に建造された「日本少年サッカー発祥の碑」でした。

日本少年サッカー発祥の碑 説明板

江尻城跡 説明板

永禄十一年(1568)武田信玄は駿河に攻め入り、この他を占領しました。

翌年には東の北条氏、西の徳川氏に対抗するために蛇行する巴川を利用して急ぎ城を築きました。

10年後の天正六年(1578)城将であった穴山梅雪は城を大改築して、高層の楼閣を建て「観国楼」と名付け江尻を城下町とする本格的な城となりました。


甲州街道を歩いた時に、徳川家康の命により創建された景徳院へ参拝しました。

此方は武田家終焉の地で、境内には武田勝頼公親子が自刃をした生涯石や墓がありました。

甲州街道は、武田家の繁栄と滅亡が刻まれた道だったな。と、思いました。

その道中で武田勝頼公への評価が私の中で多少ですが変わりました。

宿老達を犬死にさせた長篠の戦いは納得出来ませんが、信玄が後継者として後の事を考えていなかったのが駄目だったのではないか?と、残念に思います。


しかし、母は信虎(信玄の父)の次女で、信玄の次女を娶り親類衆筆頭の地位にありながら武田家滅亡に加担した行為は駄目👎だと思います。

同じ様に裏切りましたが、小山田信茂の方は根回しが下手だったのか?

織田信忠より武田家への不忠を咎められて処刑されています。

こんな死に方をするならば、勝頼と共に戦いの中で散っていれば後世の評価も大きく違っていたのに…

江尻小学校と中部電力清水営業所の敷地内に江尻城はありました。

16:01

天明元年(1781)創業の和菓子屋 甘静舎

壁には河童をモチーフにしたロゴマークと河童の足跡🐾があしらわれています。

お店は稚児橋の袂にあるので、それが由来なのかな?


足が店舗に向かいかけましたが、この先にある「追分羊羹」を食べる。と、決めていたので我慢しました

(><)

稚児橋の欄干に河童が立っていますd( ̄  ̄)


【由来】伝承によると、慶長十六年(1611)九月に徳川家康の命により巴川に橋が架けられました。

渡り初めで、1番年老いた夫婦が先頭を歩いていたが、巴川より奇児が突然現れて橋の上を駿府の方角に歩き去ったと言います。

この為、この橋を稚児橋(河童橋)と云うようになりました。

稚児橋より巴川を📸

船高札

河川交通の重要な場所であった巴川畔のこの附近に「船御高札」が建てられていました。

正徳元年(1711)六月に当時の代官より、この町に船高札が御下渡しされました。

稚児橋を振り返って📸

欄干の河童の像は、4箇所それぞれ違ったポーズです👍

臨済宗 妙心寺派 東明禅院

東明禅院山門 説明板

東明禅院 山門

この山門は江尻城(小芝城)の裏門でした。

門扉には、武田菱をかたどった南蛮鉄で造られた金具が取り付けられています。

屋根には寺の門には珍しく二基の鯱が据えられています。

現在の山門は、災禍にあい消失したものを天保二年(1831)原形に復元したもので、慶長六年(1601)に移築した当時の物として変わっていないのは門扉の金具だけだそうです。

江尻宿木戸跡標石

江尻宿の京口ですね。

追分道標

谷口法悦が建立した題目碑道標

「是より志三づ道」と刻まれています。

16:29

追分羊羹

元禄八年(1695)創業で、竹の皮に包まれた蒸し羊羹だそうです。

先達の方々も召し上がっていらしたので、私も食したい。と思い伺いましたが…

営業時間はPM3:30でした( ; _ ; )/~~~

延寿院不動堂

室町時代末期の建築様式を保つ方三間堂です。

寛文八年(1688)に大内霊山寺の旧本堂を移築したものと伝えられています。

当初は茅葺の屋根でしたが、昭和48年の解体復元工事により、茅葺形銅板葺方形造に改められました。

延寿院不動堂 説明板

都田吉兵衛供養塔

【説明板より抜粋】文久五年(1861)正月十五日、清水次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、遠州都田の吉兵衛(通称 都鳥)をここ追分で討った。

その是非は論ずべくも無いが、吉兵衛の菩提を弔う人も稀なのを憐れみ里人が供養塔を最後の地に建立して俠客の霊を慰む。

此処を訪れる諸士は彼のために一掬の涙をそそぎ香華を供養されるならば、黄泉の都鳥もその温情に感泣するであろう。

「入江まちづくり推進協議会/清水観光協会」


私的に心に沁みる文章でした。

説明板に書かれている様に、是非は別として憐れんだ里人が供養塔を建立した事と最後の文章が素晴らしいと思いました。

鬼ごろしの紙カップのお供えも🍶d( ̄  ̄)

この説明板が設置された頃までは、後世に歴史的文化遺産を遺そうと云う気持ちが伝わってきますね。


昭和の人間としては(最近、色々と若い世代に言われていますが…)日本人らしい浪花節要素が含まれるモノに涙腺が潤んでしまいました。

人は亡くなれば仏様だと思って生きてきました。

いつまでも事実関係がはっきりしない事でグダグダとマウントを取り、物申す方(国々)もいらっしゃいますが…私には理解出来ません。


ついでに言う事では無いですが、様々な言葉狩りに始まり(明らかに酷い差別用語は論外ですが)、最近のジェンダー問題まで…

自由平等の御旗が🇫🇷から、赤い主義🇨🇳🇷🇺へと流されている様に感じます。

追分踏切

話は脱線しましたが、此方は安全運行です👍

16:46

天上鮪とラッピングされた電車🚃


そろそろ本日の街道旅も終わりが近くなりました。

歩くのも少し億劫になり、お腹が空いて来ました

(^◇^;)

久能寺観音道 道標

安永七年(1778)に妙案寺村の若者の寄進により造立されました。

久能寺観音道 説明板

16:56

静鉄清水線 狐ヶ崎駅🚉

二駅先の草薙駅まで歩いて、本日の街道旅を終える事を決めました。

上原子安地蔵堂

此処で穴山梅雪は、徳川家康と会見して軍門に下った。

残念ながらゴミの集積所になっていました(T ^ T)

上原鎮守十七夜宮

上原鎮守十七夜宮 説明板

草薙一里塚跡

日本橋より四十三里目塚脇には草薙の高札場があったそうです。

これくらい立派な一里塚跡の碑だと嬉しく思います👍

狸八相縁起

一々ごもっともですね。

私には欠けている部分が多々ありますので、改めなければ…

草薙神社道標

草薙の剣をイメージしているみたいですね。


ん?この辺りに草薙神社の大鳥居があるはずなのですが見当たりません(><)

明日は此処からのスタートなので、もう一度調べてみます。

清水鉄道で見た次のラッピング電車は、「ちびまる子ちゃん」でしたd(^_^o)

原作者「 さくらももこ」さんは、清水市出身です。

17:30

JR草薙駅より宿泊先のある静岡駅へ向かいました。


考える犬の像があります。

彼の名前は「思考」で、草薙の駅前のシンボルを作ろうと云う事で置かれたそうです。


駅前のシンボルといえば▶️渋谷のハチ公

草薙のシンボルといえば▶️県立美術館▶️ロダン館▶️考える人

ハチ公と考える人を合体させたそうです😉

あと、ハチ公先輩の半分程度の存在として、八の半分の四でシ公ならぬ思考とか😆

19:39

宿泊先の近くにある此方の食堂で夕飯にしました。

煮込みセット

味噌汁を豚汁に変更して、静岡おでん(大根と黒ハンペン)と黒ハンペンのフライを頂きました。

美味しかったですd(^_^o)

明日に備えて寝ます💤

(何故か寝つけませんでした(><))

おやすみなさい😴

久々なので、些か疲れました😓