令和5年4月23日に東海道を歩いた記録です👟
既に1ヶ月以上経過しましたが( ̄▽ ̄;)
13:55
坐漁荘 門
清見寺近くにある、西園寺公望の晩年の別荘です。
大正末期から昭和初期にかけ、東京で政変が起きると興津の町は緊迫感に包まれたそうです。
特急列車が興津駅に臨時停車して、天皇の使者が西園寺公望公の別邸「坐漁荘」を訪れ、後継首班人選の下問が伝達されるのでした。
西園寺公は直ちに上京。
特急が臨時停車する興津駅の引き込み線には、白線の入った一等車の車両が西園寺公を待っていたそうです。
興津坐漁荘は、大正八年(1919)に70歳になった西園寺公が老後の静養の家として興津清見町に建てた京風の純和風建築の別荘です。
昭和15年(1940)11月24日西園寺公は坐漁荘にて死去されました。
その後、高松宮殿下に献上されます。
終戦後は徳川家を通じて、西園寺公の孫(西園寺公一氏)に戻されました。
公一氏は、豪州のバイヤーに売却します。
その後、英国大使館参事官が買上げて、昭和26年に財団法人西園寺記念協会が設立されました。
建物の傷みが激しくなった昭和43年11月に明治村への移転の話がまとまりました。
昭和44年10月、家具や調度品が運び出された後に建物を測量、記号を付けて解体し、翌年6月に明治村三号地に移転復元されました。
波瀾万丈の中で遺されている事は素晴らしいと思いましたd(^_^o)
2階は行事が行われていたので、1階部分だけ見学させて頂きました。
庭園
応接室
テラス
西園寺公望公 写真
居間
懐かしい仁丹とカルピスの看板がありましたd( ̄  ̄)
アプローチ
調べて見ると、現在の坐漁荘は、往時の物ではありませんでした∑(゚Д゚)
平成11年清水市内の経済人が清水市と市議会へ要望書を提出しました。
平成12年官民一体の取組を始めて、清水市は予算化検討を始めました。
この建物の歴史的経過を踏まえて歴史的文化財として、元の地に出来る限り忠実に復元される事になりました。
平成13年基本設計完了
平成14年工事着手
平成16年3月竣工
平成16年4月25日オープニングセレモニーが行われました👏
清水市民も経済人の方々も素晴らしい取組をなさったのだと、嬉しく思いました🙇♂️
坐漁荘を後にして、少し歩くと波多打川の手前に公園がありました。(清水清見潟公園)
休憩しようと立ち寄ると、予備知識にない銅像が見えて来ました。
誰だろう?と、近付いて見ると井上馨侯でした∑(゚Д゚)
西園寺公望公が興津へ移住する以前に井上馨侯が興津へ移住していたそうです。
他にも、後藤象二郎、伊藤博文、松方正義等の多くの政治家が別荘を建てたり宿泊するなど、興津は別荘地•避暑地として大変賑わったそうです。
別荘地、避暑地と言えば大磯だと思っていました。
興津が別荘地になっていたとは、全く知りませんでした💦
昭和17年頃まで高さ4.85m重さ6.75tの井上馨侯の銅像がありましたが、戦争の為に供出されました。
また、井上馨侯の別邸「長者荘」は昭和20年7月7日の空襲で焼失しました。
⬆️碑文の読み方と井上侯寿像之碑読み方
色々と調べて見たら、興津宿侮れませんでした🙇♂️
14:14
横砂踏切を渡ります👟
延命地蔵堂
念仏供養塔
自然石に「念佛十二億万遍供養」と刻まれています。
臨済宗 妙心寺派 医王山 東光寺
創建は天文年間(1532~1534)
東光寺急造勅使門•格子門扉と東光寺由緒 説明板
格子門は勅使下向の際に興津川の渡しが川止めとなり、この寺に泊まる事になり急遽造られました。
旧東海道 松並木の名残松
違う意味での名残松のイメージでした。
(多くの松の木で賑わっていただろう街道に、今では此方の松が残るだけとは…)
延命地蔵尊
吉原往還道起点
興津宿から江尻宿に掛けて「袖師ふるさとの道」として、この様に分かり易く史蹟等を教えて頂き有難く思いました。
14:41
袖師東交差点🚥を通過👟
辻町交差点まで国道を歩きます。
辻町交差点から右手の旧道に入ります。
辻町交差点にある「無縁さんの碑」
辻村の東辺りから西久保にかけて、細井の松原と呼ばれていた松並木が続いていました。
この松並木は昭和19年松根油採取の為に伐採されました。
この時に多量の人骨が出土します。
東海道で倒れた旅人が埋葬されたのだと推察され、町内の人々は寺に葬り、松原の一隅に記念碑を建て霊を慰めました。
細井野松原跡 案内板
辻村の高札場跡
この辺りにある予定の案内板が無くて、ガイドブックを片手に右往左往としていました。
向かいから、道路の右端と左端をガイドブックを片手に持って歩いている男性2人に遭遇しました。
お二人は、お仲間のようで見落としが無い様に二手に分かれて歩いていた様です。
「一里塚跡探しているのですが、お解りになりましたか?今日は何方からですか?」
「私達も探しているんですよ。神戸からです。」
あら💦
何処から歩いたのか、今日のスタート地点を尋ねたつもりだったのですが…
話をしていると、路上に出て来た叔母様を発見💡
駆け寄り尋ねた所「以前は案内板があったと思うけど、無くなってるね。多分、あの辺りだよ。」
「やっぱり、この辺りみたいですね。」
「聞こえてたよ。ありがとう。」
この辺りが辻の一里塚跡だと思われます。
ガイドブックには解説板があると記されていましたが見当たりませんでした(><)
向こうに見える御二方とは僅かの会話をしただけで名残惜しいですが、上り道と下り道分かれました👋
この辺りが江尻宿の東木戸跡だと思うのですが、此方にもガイドブックに記されていた解説板はありません。
そう言えば、先程の御二方が「この先も無かった。」様な事を言っていた様な…
東木戸付近にあった旧家
この先を左に行くとJR清水駅です。
15:30
江尻宿 町名の由来「鍛冶町」
やっと宿場の解説板がありました。
随分と年季が入っている様な気がします。
同じ清水市だと思うのですが、興津宿と江尻宿だと「旧東海道」に対しての思いが違うのかな?
少し、気持ちと足取りが重くなりました。
後1回で4/23は終えたいと思います💨