2月3、11日に中山道近江八宿の番場宿から鳥居本宿までを歩いてきた。11日はこの冬一番の寒気が流れ込んだ影響で、前日までに降った雪が残る中での散策となった。特に江戸から中山道を進むとき東海道と合流する草津追分までだと、最後の峠となる小摺針峠(標高197m)と摺(磨)針峠(標高180m)を越えるときには、道路は除雪されていたが路傍には20cm近い雪が残っていた。
番場宿は、古代東山道が通っており鎌倉時代には宿場の機能を果たしていたといわれる。現在の番場地区は東番場と西番場に別れているが、昔の宿場は現在の西番場にあり、その後米原に琵琶湖水運の港ができ、東番場から街道が通じたことにより宿場機能が東番場に移った。写真は東見附跡ポケットパークの番場宿碑と番場の忠太郎像。
米原湊を経て琵琶湖の水運に通じる宿として山間に誕生した番場宿は、鎌倉幕府滅亡時に悲劇が起きた地で、その歴史が周辺に残る。山間の寒村のため、宿の長さは1町10間(127m)で中山道のどの宿より短かった。長谷川伸の戯曲で主人公の出身地に設定され、宿の名を有名にした。
番場宿から鳥居本宿までの経路と主な遺構など。
中山道は河南(かわなみ)交差点で国道と分かれ、右斜めの道に入って行く。この分岐点には木製の「中山道河南」の標識がある。先に進むと右側の覆屋の中に地蔵堂が安置されている。地蔵堂を過ぎると左側に茶屋道館いっぷく場がある。「いっぷく場」と看板にある。表札には「茶屋道館」の表札もある。平屋建のように見えるが二階建になっていて、茅葺きを瓦葺きに変えた際に旧来の柱組を利用したため低い二階造りになったと看板にある。空き家を地元の自治会が買い取り、小字名の「茶屋道」から「茶屋道館」と名付け、歴史的資料を集めるとともに中山道醒ケ井宿と番場宿の中間に位置するところから、「憩」と「いっぷくの場」としたそうだ。
樋口立場がある樋口集落には比較的古そうな家が点在している。江戸時代の樋口村は 餡餅や饅頭が名物の立場だったという。樋口交差点で国道と交差するが、中山道はそのまま直進する。狭い道に入っていくと三吉(みつよし)地区である。
八坂神社には高さ3.9mの鎌倉時代の石造が建つ。松尾寺(醒井宿で記述)の石造九重塔(国重文)より50年ほど後に建てられており、ここが松尾寺の旧参道に当たる。訪れた2月11日は積雪で入って行けないので、写真は米原市HPから。
三吉地区の分岐で右に行くと米原ICだが中山道は左折し、北陸自動車道の高架の下を潜ると小公園に「中山道一里塚跡」の大きな自然石の石碑と松と桜の木が植えられている。江戸日本橋から117里目の「久礼(禮)の一里塚」である。案内板には、「右側には「とねり木」、左側には「榎」が植えられていた」とある。中山道で唯一とねり木が植わっていた北塚は西100mの集落内にあったが、民家に変わり名残はない。
一里塚跡の先は、右側には山が迫ってきていて左右にくねくねと曲がりながら道が続く。この辺りは久礼集落で道の両脇には家はあるが数えられる程で、桜と楓の並木道になっている。人通りがほとんどなく、「Hマン出るぞ」の看板が設置されている。
桜楓並木を過ぎると、手書きの手作り木製案内「ここは番場宿です」がある。ここが番場宿の東見付跡で、番場宿の 江戸方(東)の入口である。広重は木曽海道六十九次之の中で番場としてこの東見付から見た宿内を描いている。交差点の右角にポケットパークがあり、「中山道番場宿」の石碑と「中山道分間延絵図番場宿部分」のレリーフ、「番場の忠太郎像」がある。
歌川広重が東見付から見た宿内を描いている「木曾海道六拾九次之内番場」。中山道が曲がるのは東見附で、左に石垣と土塁、背後に宿を代表する六波羅山を入れている。
交差点右北西角の道標には 「 米原汽車汽船道 」と刻まれているので、琵琶湖線(現東海道線)が開通した明治22年(1889)以降に建立されたものである。米原の字の上に、右を指さす手が浮き彫りにされているのも独特だ。右へ行く道は県道240号(米原道)で、もともとは慶長8年(1603)番場宿本陣を勤める北村源十郎が彦根藩の命により琵琶湖に米原湊を築き、次いで同16年(1611)に湊と中山道から米原へ通じる道が開削され、現在でも米原駅へ行く主要な道路となっている。米原は琵琶湖の埋立てにより内陸になってしまったが、江戸時代は琵琶湖湖岸にあって物資輸送基地として栄え、番場宿から一里ほどだった。
交差点の先、右側の民家前に「中山道番場宿脇本陣跡」、その隣の民家前に 「中山道番場宿問屋場跡」の標石がある。脇本陣は 高尾家が勤め問屋を兼ねていた。そのまた隣の民家前に「中山道番場宿本陣跡」、その隣の民家前に「中山道番場宿問屋場跡」と「明治天皇番場宿小休所」の石碑、その隣の民家前に「中山道番場宿問屋場跡」が並んでいる。北村家が本陣を勤め問屋を兼ねていた。前述したように本陣を勤めた北村源十郎が米原湊を開発した。番場宿には本陣、脇本陣、問屋場が6軒(米原湊の水運輸送基地として栄えた)もあったが、いずれも標石のみで遺構は残されていない。
本陣、脇本陣、問屋場跡を過ぎると、左奥に続く蓮華寺の参道口があり、 その左角に「境内在故六波羅鎮将北条仲時及諸将士墳墓」、「瞼の母番場の忠太郎地蔵尊」「南北朝の古戦場蓮華寺」、 右角に「史跡蓮華寺」の石柱が立っている。名神高速道の高架を潜ると蓮華寺の勅使門(山門)がある。
本堂の正面に掲げられている寺額「蓮華寺」は後水尾天皇直筆の勅額で、 元禄5年(1692)に御下賜されたものである。勅使門の左側、参詣者入口前に石を敷き詰めた短くて小さな溝脇に、血の川の立札が立っている。説明板によると「元弘3年(1333)5月、京都合戦に敗れた六波羅探題北条仲時公は、北朝の天子光厳天皇及び二上皇・皇族等を奉じ、東国へ落ちのびるために中山道を下る途中当地にて南朝軍の重囲に陥り、奮戦したるも戦運味方せず戦いに敗れ、本堂前庭にて430余名自刃す。鮮血滴り流れて川の如し。故に「血の川」と称す。時に元弘3年5月9日のことである」。本堂右手の山道を少し登ると、北条仲時以下432人の五輪塔が整然と並んでいて見るものを圧倒する。本堂の裏には浪花節などで有名になった番場の忠太郎地蔵がある。「戯曲「瞼の母」を書いた作家の長谷川伸が昭和33年に「南無帰命頂礼親をたづぬる子には親を子をたづねる親には子をめぐり合わせ 給へ 」と祈願して建立された地蔵尊で、愛知岡崎の成瀬大吉の製作である。番場の忠太郎は時代劇母を訪ねての股旅もののヒロインで、この宿場の旅籠の倅という設定になっている。地蔵尊や墓まで建てられているが、実在の人物ではない。
蓮華寺を出た中山道は緩く上っており、西へ1.2km行ったところに写真左の案内標柱がある。近くには立派な「国指定史跡鎌刃(かまは)城跡案内板」も設置されている。その先に「ここは中世の宿場まち米原番場」の標柱が立つ。ここが中世東山道の番場駅(うまや)があった西番場(元番場)である。江戸時代には上番場村だった。戦国時代までは鎌刃城の城下町としての機能も果たしていたともいわれる。近世は米原湊に通じる米原道が出来たことで、下番場村(東番場地区)に宿場が移った。現在の西番場は古い建物もほとんど残っていない。人影も少なくひっそりとした山間の寒村となっている。
西番場には「番場資料館」の表札を掲げた資料館があるが、この日は営業してなかった。鎌刃城の幟、鎌刃城跡の見どころを紹介したポスターが掲示してあった。
西番場を出ると緩やかな上り道が続き、小摺針(こすりはり)の入口には2、3戸の家がある。 中山道は名神高速道路工事時に壊されて今はないので、名神高速道路に沿って付けられた道を歩いていく。上り坂をグングン進むと、名神高速道路の米原トンネルの上になる。ここが小摺針峠の頂上で米原市と彦根市の境である。左側の金網越しに名神高速道路を走る車が見える。右側に小さな地蔵堂と「泰平水」という湧き水があり、旅人の道中安全を見守り喉を潤してきたであろう。
小摺針峠を下ると広がりのある三叉路があり、2基の道標が立つ。新しい道標には「右中山道」「左中山道」と刻まれ、古い道標の正面には「摺針峠彦根」左面に「番場醒井」右面に「中山道鳥居本」 と刻まれている。中山道は右手方向の摺針峠へ進むが、摺針峠を越えなくても、左手に行けば鳥居本に至る道があるようだ。
三叉路の分岐点からは再び上り坂になり、集落の入口辺りに「磨(摺)針一里塚跡」の新しい碑がある。江戸より118里目の一里塚だが、碑のみで今は何も残っていない。上り勾配は更に強くなり静かな佇まいの摺針集落に入ると、左側に浄土真宗本願寺派称名寺、参道口に地蔵堂がある。
摺針集落を上っていくと、標高180mの摺針峠頂上に着く。江戸から中山道を進むとき東海道と合流する草津追分までだと、ここが最後の峠となる。摺針峠切通しの高いところにある神明宮の階段を登った先に「望湖堂跡」があり、説明板が立つ。東海道と異なり、海を見ることのない中山道の旅人が初めて広い湖を見る地である。説明によると「江戸時代、摺針峠に望湖堂という大きな茶屋が設けられていた。峠を行き交う旅人は、ここで絶景を楽しみながら「するはり餅」に舌鼓を打った。参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節、また幕末の和宮降嫁の際も当所に立ち寄っており、茶屋とは言いながらも建物は本陣構えで、「御小休御本陣」を自称するほどであった。その繁栄ぶりは、近隣の鳥居本宿と番場宿の本陣が、寛政7年(1795)8月、奉行宛てに連署で、望湖堂に本陣まがいの営業を慎むように訴えていることからも推測される。この望湖堂は、往時の姿をよく留め、参勤交代や朝鮮通信使の資料なども多数保管していたが、近年(平成3年)の火災で焼失したのが惜しまる。」と記されている。
摺針峠切通しからの下りは曲がりくねったかなり急な坂道で、摺針峠西坂ともいわれる。車道から離れて最近整備された旧道が残っているのだが、この日は残雪で歩くのが困難な状態だったので並行する車道を下りることにした。坂道を下りたところに「舊中仙道 明治天皇御聖跡 弘法大師縁の地 磨針峠望湖堂 是より東へ山道八百米」と刻まれた石碑がある。
国道8号線から摺針峠への入口に立つ道標。正面に「右中山道摺針番場」左面に「左北國米原きの本道」と刻まれている。R8は江戸時代の北國街道で、 長浜を経て越前へ向かう道である。道標の北側R8沿いにはエレベーター研究棟が建っている。中山道はR8を西進、橋を渡るとすぐ左側に「右中山道」の石柱がある(京から江戸に向かうと右)ので、 三叉路を左斜めの道に入っていく。ここが鳥居本宿の東口で、大きな石柱が三本立っていて、正面の石柱には「おいでやす彦根市へ」と刻まれ、各々の石柱の上には近江商人、旅人、虚無僧の像が乗っている。京方面側には「またおいでやす」と刻まれている。