2月3、11日に中山道近江八宿の柏原宿から醒井宿までを歩いてきた。11日はこの冬一番の寒気が流れ込んだ影響で、前日までの降雪が残る中での散策となった。
昨年12月までに、中山道美濃十六宿を歩き終えたので、今年は中山道近江の八宿(柏原宿、醒井宿、番場宿、鳥居本宿、高宮宿、愛知川宿、武佐宿、守山宿)と東海道と交わる草津宿、大津宿を訪ねたいと思い、まず手始めに柏原宿を散策してきた。中山道のなかでも大規模な宿場町だったという柏原宿は、伊吹山に近く、伊吹山のヨモギで作られる艾(もぐさ)が名産で、かつては十数軒の艾屋が軒を連ねていたが、今は一軒だけである。柱や板をベンガラで塗る風習は岐阜県西端の今須宿から見られるが、滋賀県に入ると本格的に増え、近畿文化圏を実感する。ここは多雪地域のため、中山道の中央に消雪パイプが敷設されている。
柏原宿歴史館は、宿場内の中ほどに位置し、中山道を南面にして建っている。染料関係で財をなした松浦氏の邸宅で、中山道に向けて三つの入母屋造妻飾りを重ねる重厚な表構えに特徴がある。元は伊吹堂分家の主屋を改造し平成10年に開館したという。喫茶「柏」が併設されており、軽食メニューの「やいとうどん」は、トロロ昆布の上に紅生姜を乗せる。やいととは「お灸」のことで、とろろ昆布をやいとの艾に、紅生姜はやいとをするときの赤い火に見立てたもの。
柏原宿から醒井宿までの経路と主な遺構など。
「近江美濃両國境寝物語近江國長久寺村」と刻まれた石柱が立っている。細い溝一本で区切られている旧中山道の近江と美濃の國境で、現在もその溝が岐阜県と滋賀県の境になっている。その昔、この溝を挟んで近江側に亀屋、美濃側に両国屋という旅籠があり、それぞれの宿に泊まった旅人が、寝ながらにして他国の人と会話ができたことから、いつしか寝物語と呼ばれるようになったという。この国境は、単に江濃二国の境目だけでなく、西は関西、東は関東の文化、経済、言葉や生活習慣などの相違を示す分水嶺のような地点である。木造建築のベンガラもそうであるが、餅の形は四角か丸か、ウナギは背開きか腹開きか、東が濃い口で鰹だし西は薄口で昆布だし、畳は西の京間東の江戸間、セーラー服に胸あてがあるのが西でないのが東…等々、昔も今も異った文化、風俗、習慣など重要な意味を持つ場所でもある。
野瀬山の長比(たけくらべ)城跡登り口は、道路側溝が地勢状の分水嶺になっている。西の溝は大阪湾に、東の溝は伊勢湾に流れる。
長比城跡登り口の道標(左上)、長比城跡の道標西100mに古道が分岐し、旧東山道の標識が立つ(右上)、東海道本線の踏切名は第○○踏切でなく地名の野瀬踏切で、中山道は踏切を渡り右折、西進する(左下)、踏切から200m西に「中山道分間延絵図」、柏原宿の道標がある(右下)。
中世の仏教説話や浄瑠璃「小栗判官、照手姫」にまつわる伝承の「照手姫笠掛地蔵」。地蔵堂正面向かって右側、背の低い如何にも古い時代を偲ばせる石地蔵が照手姫笠掛地蔵である。
ベンガラ(弁柄)の家。ベンガラとは、木造建築の柱や板などを朱色に塗る顔料の慣用名。ベンガラは西日本全域に分布するが、岐阜県西端の今須宿に入ると特殊な場合を除いて見られない。この柏原宿が境界線になっている。
八幡神社境内の芭蕉句碑、「そのままよ月もたのまじ伊吹山」。
伊吹山はボリュームのある山容でよく目立つ山であることから、古くから世に知られて歌や詩に詠まれている。柏原宿のすぐ眼の前に大きく聳えているので、成菩提院への道からも眺望できる。
成菩提院は、9世紀はじめ最澄が開いた天台宗の寺院。寺歴は古く、東山道・中山道沿いの寺ということで、豊臣秀吉や織田信長が街道を往来する折に、ここを宿所としていた。広い境内には絹本著色聖徳太子など数々の文化財がある。
脇本陣跡、問屋場跡、東の荷蔵跡の説明板のみで、建物などの遺構は残っていない。脇本陣は南部本陣の別家が務め、問屋役を兼務した。
問屋役年寄吉村家跡で映画監督吉村公三郎の実家と、吉村監督の初恋の地とされ、映画「地上」のモチーフとなった市場橋。
本陣跡の標識、皇女和宮宿泊跡地の碑があるのみで建物等は現存していない。柏原宿は江戸時代を通し南部家が本陣役を務めている。間口は26間あり、屋敷は520坪、建坪は138坪あった。建物は皇女和宮宿泊の時、新築されたとも云われている。写真は本陣跡に建つ民家と酒店。
柏原宿は、中山道60番目の宿として大層賑わった宿場町で、長さが1.5kmと近江国最大級の宿場であり、昔ながらの町並みを残している。中でも柏原宿の特産である伊吹山の薬草を原料とした伊吹艾を商う「伊吹堂亀屋七兵衛佐京」は、今も昔と変わらぬ佇まいで営業を続けている。
歌川広重の「木曾海道六拾九次之内柏原」は、艾屋の中で代表的な「亀屋七兵衛佐京」を採り上げ、右端の福助人形の横に番頭、伊吹山模型の前に手代が客と応対している様子、左は茶屋を兼業し金時人形と庭園が見える様子などを描いている。
最澄が創立したという明星山明星輪寺泉明院(薬師堂)への道しるべ。この道標は享保2年(1717)と古く、正面が漢文、横二面が平仮名、変体仮名を使った二つの和文で、「従是明星山藥師道」「屋久志へのみち」「やくしへのみち」と刻まれている。御茶屋御殿は将軍の休泊所として三代将軍徳川家光上洛時に建てられ、14回使用した後に廃止され、今は御茶屋御殿跡公園となり井戸が残る。
美濃から近江へ入った最初の宿場町であまり観光地化されず、江戸時代以来の旅篭の建物や古い商店が幾つか残っており、宿駅の名残をよく留めている。
街道の左手に「柏原一里塚跡」碑が立っている。江戸日本橋から数えて115番目で、柏原宿内の西見付近くに街道を挟んで北塚と南塚があったが、両塚とも現存しないと説明されている。南塚は平成15年に位置を変え盛り土をして当時の様子を復元している。
北畠具行の墓(国史跡)。後醍醐天皇による倒幕が失敗し、鎌倉へ護送の途中、鎌倉幕府の命を受けた佐々木動誉により斬首された。墓は高さ204cmの宝篋印塔で、徳源院の南700m、丸山の山頂にある(左)。徳源院清瀧寺の京極家墓所(国史跡)。徳源院は、中山道の柏原宿の近く清瀧山の山麓にある寺で、佐々木京極氏の菩提寺である。武家屋敷を彷彿とさせる石垣の上に下半分・黒塗りの腰板が張られた白壁の築地塀で囲われ、見所は歴代の宝篋印塔、背後の山を借景とした回遊式庭園と三重塔、枝垂桜などである(右)。
江濃国境の長久寺から醒井宿までの間は江戸中期、1,600本の松があつたという。丸山山麓の西見付跡には5本だけ残り、幕末に混植された楓が加わる。
長沢(ながそ)地区に漢字、変体仮名、平仮名の三体で書かれた「従是明星山藥師道」の道標が立つ。類似の道標は柏原宿にもある。その先にある小川の関碑に「右旧中山道、左中山道(大正初期にできた新道)」が案内されている。小川の関の説明板には「近江坂田郡志には、稚淳毛両岐王(わかぬけのみたまたおう)の守りし関屋(現存しないが関所の施設)と書かれ、大字柏原小字小黒谷、大字梓河内小字小川の辺りに比定、小川、古川、粉川または横川の転訛せし地名としている。一面どこも植林され原野となっているが、戦時中は食糧増産のため開墾、畑となっていた所である。古道の山側には整然と区画された屋敷跡「館跡」を確認することが出来る。)と書かれている。