中山道伏見宿から太田宿までを歩く | シニアの の~んびり道草

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日頃の散歩や近場のドライブ、時には一晩泊りでぶらっと訪ね歩くことがある。そんな折、おお! これは綺麗だ、これは凄い、これは面白いと感嘆したり、感動したようなことを、思いつくまヽアルバム風に綴ってみる。

9月5日、中山道美濃十六宿の伏見宿から太田宿までを歩いてきた。国道21号線を西へ進み名鉄八百津線(2001年廃線)と交差する東坂と呼ばれる緩い坂道(この辺りが伏見宿の江戸口である)を上っていくと伏見宿へ入る。

 

中山道50番目の宿場となる伏見宿は、御嶽宿の開宿から約90年後に整備された。伏見宿は木曾川の新村湊を控え、荷の集積場として賑わい、太田の渡しが川止めになると旅人であふれた。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒であった。

伏見宿は宿内を国道21号が通ってしまったため往時の面影は少ない。現在は、わずかながらに残る古い格子の建物や宿場行燈、本陣跡碑などが、往時の名残をとどめている。また、伏見西坂には槍ヶ岳開山で知られる播隆上人の名号碑が残され、人々の暮らしのなかにあった信仰の一端を知ることができる。

 

御嵩町伏見公民館の前に、「伏見宿本陣之碑」がある。本陣は代々岡田与治右衛門が勤めた。嘉永元年(1848)に大火で焼失し、再建されることなく明治維新を迎えた。本陣の碑の隣には「是よ里東尾州領」と刻まれた「領界碑」(傍示杭)がある。境界傍示杭は、もともとここにあったのではなく西坂から移設したもので、西坂から東が尾張藩領であったことを示している。本陣は実際には道路を隔てた向かい側にあったといわれている。

 

伏見宿から太田宿までの経路と主な遺構など。

 

一本松公園は、中山道伏見宿のほぼ中心に位置する交差点角のミニ公園で、樹齢200年以上の松の木を中心に、休憩に使える四阿とトイレが設置されており旅人を癒してくれる。街道際には道標が設置されており、「右御嶽 左兼山八百津」が刻まれている。ここを北進すると、江戸から大正期にかけて木曾川を利用した輸送の要だった新村湊跡に至る。

 

旧伏見郵便局舎を利用したミニ観光案内所・中山道ゆったり伏見宿は、往来の休憩所として多くの旅人が立ち寄り、地域交流の場としても活動を展開している。この宿で有名なのは、文政7年(1824)年、伏見宿内の旅籠松屋に「駱駝」が滞在したという記録。駱駝は幕府に献上するためにペルシア(イラン)から連れてこられたが、幕府から断られた。その後、駱駝は見世物興行師の手に渡り、見世物として各地を回っていたが、中山道を旅する途中興行師が伏見宿で病になり3日間ほど逗留した。すると、駱駝をひと目見ようと、近隣の村々から2日間で2,000人以上の人が集まったという。(中山道ぎふ17宿歩き旅パンフによる)

 

旧伏見郵便局の右隣は「松屋山田家住宅」(国登録有形文化財)で、古民家カフェの多鞠(たまり)庵として営業している。

 

旧伏見郵便局・中山道ゆったり伏見宿から南へ400mほどの洞興寺境内に、土盛りで数多くの石仏が建立された「女郎塚」がある。伏見宿で働いていた身寄りのない飯盛女(宿場女郎)たちを葬ったとも、この辺りの人々が旅人の安全を祈願するために設けたとも伝えられている塚である。案内碑には、「由来 関ヶ原の合戦(1600)後、中仙道は整備され京と江戸を結ぶ重要な裏街道となった。元禄7年(1694)太田宿と御嵩宿の中間、この伏見に宿場が新設され以来伏見は宿場街として栄えた。里人達はこの繁栄は旅人達のお陰だと感謝して力を合わせて、ここに塚を築き観音様を祀り旅人の道中安全を祈願した。里人達はいつとはなく、この塚を女郎塚と愛称し信仰した。又、一説にはこの伏見宿には数多くの飯盛女が働いていたが、この女子家中には身寄りのない人も随分いたので、この塚に懇に葬ったので女郎塚というように成ったともいわれている。この塚の上には数多くの石仏が祀られている。」と記されている。飯盛女は各宿場で見られたものだが、当時、貧困した家を助けるために、飯盛女として年季奉公や身売り同然で働かされた女性が多く見られたといい、中には一生帰省できなかった場合もあったという。この塚がそんな女性たちを祀るものだとしたら、宿場の一面を見るような気がしてならない。

 

歌川広重の「木曾海道六拾九次之内伏見」には犬山街道の中恵土にあった「伏見大杉」が描かれているが、大杉は昭和9年(1934)に室戸台風で倒れてしまっている。伏見宿は木曾川本流に近いところにあった。大きな杉の木を画面中央に据え、そこを通る或いはそこに集う人々の姿を描いている。弁当を囲む夫婦、笠を枕に昼寝の旅人、澄まし顔でとおる医者や草鞋の紐を締め直す人など、様々な人の営みを描いている。広重の関心が宿場そのものでなく、道中で見かける光景であったことがよく分かる。右の三味線を持つ3人ずれは御嶽宿願興寺の「大寺ごぜ」(瞽女)だろうか!。

   

 

宿場を出ると右手に常夜燈や道祖神、小さな社が祀られている。その先の伏見西坂の下り右手に「南無阿弥陀仏」と刻まれた碑がある。槍ヶ岳を開山した浄土宗の播隆上人が建立した名号碑である。播隆上人の名号碑は御嵩町内に9基あるというが、伏見西坂の名号碑はその中で最大のもので、高さが226cmあり、天保5年(1834)に建てられた。

 

国道21号上恵戸交差点には大正4年(1915)建立の道標「右太田渡ヲ経テ岐阜市ニ至ル約4里」「左多治見及犬山ニ至ル約4里」がある(写真のように傾いて立っている)。大正4年と刻まれていることから、 この時代の木曾川はまだ渡し舟だったのだろうか。すぐ先の地下道入り口と国道の間に建てられた真新しい「恵土の一里塚碑」があり、これより約30メートル東と刻まれている。江戸から97里目一里塚であるが、碑だけで何もない。この辺りは国道21号、同バイパス、県・市道が整備されており、往時の面影はほとんど残っていない。

 

今渡地区の木曾川に架かる太田橋南詰に「渡し場跡公園」がある。木曾川の出水ごとに川止めとなったので、今渡地区は旅人のための宿屋、茶屋などが立ち並び、湊町として繁栄した。公園には黒い御影石に「木曾のかけはし太田の渡し碓井峠がなくばよい」と刻まれた碑が立っている。


 

国道21号線から太田橋の手前を真っ直ぐに川下に向かうと、江戸から98番目の土田(どた)の一里塚跡、桜井の泉がある。ここは今渡の渡しが出来る前の土田の渡しがあった古中山道である。当初は土田にあった渡し場が、木曾川の流れの変化につれて上流に移動し、土田宿が廃止になり、代わって伏見に宿場ができたという。一里塚は碑があるだけで何もない。一里塚跡碑の後方建物の裏手に桜井の泉があり、東山道時代から旅人の喉を潤してきた泉は今も滾々と清水が湧き出している。傍らの案内板には「散れば浮き散らねば底に影見えてなお面白し桜井の池」と藤原定家が詠んだ句がある。

 

太田橋南詰の渡し場跡公園に、中山道の三大難所の一つにうたわれた「太田の渡し」の変遷を記した地図の説明碑がある。江戸中期の天明(1781~1789)以前は、土田の渡し場~太田の渡し場(祐泉寺付近)、天明以後は今渡の渡し場(弘法堂付近)~太田の渡し場(現在の美濃加茂市文化会館付近)となっている。その後も川瀬の変化とともに上流側へと変更され、最終的には現太田橋下流付近となった。明治24年(1891)に鉄索(ワイヤー)を用いた岡田式渡船となり、昭和2年(1927)には太田橋の完成とともにその役目を終えた。

 

太田橋のすぐ下流(太田橋の先には今渡ダムの堰が見える)の今渡の渡し場跡。今渡神明弘法堂下には、渡し場に通じた石畳が今も残されている。左上は対岸の太田の渡し場跡。

 

木曾川を渡ると可児市から美濃加茂市に入る。渡り詰を横断し土手道を進むと、太田の渡し場跡がある。平成6年に河底から大規模な珪化木群が発見され、一帯は「化石林公園」として整備されている。公園休憩所のすぐ下に太田の渡し入り口石畳がある。この先の旧中山道は木曾川右岸の河川敷を通っていたが、堤防工事が行われたためほぼ消滅状態である。右上は対岸の今渡の渡し場跡。

 

堤防上の土手道を進むと、土手下の美濃加茂市文化会館の裏手に「古井(こび)の一里塚跡」の標柱がある。江戸より98里目の一里塚である。木曾川の流れの変化につれて、対岸の可児市の土田(どた)宿が廃宿され、土田の一里塚(江戸より98里目)に代わり、古井の一里塚が新設されたという。ほどなくして水車が廻る米問屋(水車米)を過ぎると「中山道太田宿→」と刻まれた標石があり、太田宿に入っていく。