2020.5月から10月にかけて、中山道美濃十六宿の加納宿、河渡宿、美江寺宿、赤坂宿、垂井宿、関ヶ原宿、そして一番西にあたる今須宿を歩いてきた。少し間があいてしまったが、7月(2024.7.18)に鵜沼宿から加納宿までを、そして今回(2024.8.15)は、細久手宿から御嶽宿までを歩いてきた。
中山道は慶長6年(1601)から7年間で他の4街道(東海道、日光街道、奥州街道、甲州街道)とともに整備された街道である。古くは都と東国を結ぶ東山道と称された。当初、「中仙道」と称されたが、享保元年(1716)「中山道」と書くように改められた。江戸日本橋から、上野、信濃、木曽、美濃、近江を経て京三条大橋まで135里32丁(約534km)、69宿あり東海道とともに幹線道路であった。草津宿では東海道と合流。東海道よりは40kmも長い道程である。中山道は木曽路をはじめ、峠道が多く、人馬の往来は困難であった。参勤交代の大名は東海道の154家に対し中山道は34家と少なかった。しかし、往来が少ないうえに、大河もなく、氾濫に伴う渋滞も少なかったことから、二条城番、大阪城番、日光例幣使などは、片道を必ず利用した。又、将軍へ献上する宇治茶の茶壷道中や、将軍に輿入れの皇女和宮も通過した。(参照=瑞浪市大湫町コミュニティ推進協議会サイト)
細久手宿は江戸から48番目の宿で、江戸へ92里、京都へ42里の位置にある。東隣りの大湫宿と西隣りの御嶽宿の両宿間は4里半と長く、両宿の人馬が難渋したため、慶長11年(1606)に仮宿を設けたのが始まり。写真は可児郡御嵩町の修復整備された謡坂(うとうざか)の石畳。
細久手宿内の町並みは、東高西低で、東の茶屋ヶ根から西の日吉・愛宕神社入口迄が上町・中町・下町に三分され、宿長は3町45間(410m)あり、枡形(鍵の手)はつくられず、上町と下町に弓形(曲がり)が施され、高札場は上町入り口の庚申堂前に、本陣・問屋場は中町に、脇本陣は下町にあり、往還に沿って東西に細長い町並みであった。また家々の地割は、5間から10間と統一されていないが、家々の境は石積みで区画整地されており、いまも新宿設置のころの施工の様子がうかがわれる。(参照=瑞浪市商工観光課細久手宿サイト)
中山道はこの奥之田一里塚を過ぎると、細久手宿に入る。江戸日本橋より92里目で、高さ3m、直径10m程で自然の地形をうまく利用し両塚を残している。細久手宿に近づくと三国見晴台と馬頭様の標柱がある。切山辻の見晴らし台跡で、今は樹木が生い茂り何も見えない。中山道は舗装された道から細い道を行くが、工場にぶつかり消えていた。かつて小学校があった跡の工場の中を通っていたのである。
細久手宿から御嶽宿までの経路と主な遺構など。
「細久手の庚申さま」と親しまれているこのお堂は、享和2年(1802)に厄除けに造られたと言われ、宿場を見守るかのように小高いところにあり、細久手を見渡すことができる。境内には石仏や石像が見られる。
細久手宿高札場跡。後方のお堂は庚申堂。
現在、細久手宿に残されている宿は大黒屋旅館のみ。もともとは尾州家が、問屋役酒井吉右衛門宅を「尾州家本陣」として定めたのが、「尾州家定本陣大黒屋」のはじまりという。安政5年(1858)大火類焼直後に再建された大黒屋は、軒庇付切妻造の二階建てで、両端に本卯建を上げ、二階が一階に比して目立って低い特徴があり、国の登録有形文化財に指定されている。明治35年(1902)中央本線が開通したため、中山道の通行量が徐々に減り、旅館の営業をやめていた時期があった。しかし、戦前から戦後にかけて、近くの日吉町白倉地区で亜炭採掘が盛んになり、昭和20年代後半に料理旅館「大黒屋」として復活し、現在に至っている。
細久手宿本陣跡の標柱と細久手宿の現地案内板。慶長11年(1606)に七軒屋と呼ばれる小さな仮宿が設けられ、慶長15年に正規の宿場として再整備されている。宿場の規模は町並み3町45間(約410m)、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠24軒、家数65軒、総人数256人だった。本陣、脇本陣とも今は何も残されていない。現在の街並みは安政の大火(安政5年[1858])以降のものである。
文化10年(1813)当時の細久手宿絵図。公民館の前には「ちょうちん祭り」のレリーフがある。毎年7月第4土曜日に開催される津島神社の祭礼で、江戸時代に作られた巻藁船を模した山車に赤丸提灯を飾り宿内を練り歩く。
右手斜面の上に細久手の穴観音がある。石窟内に寛政13年(1801)建立の馬頭観音が安置されている。観音の日にお参りすると九万九千回お参りしたことになるという。
緩い坂を下り平岩橋を渡ると、平岩辻に出る。そこに「南まつのこ・おにいわ、西みたけ」の道しるべがある。横断して西の坂口へ入いると「左中仙道西の坂道」と刻まれた道標がある。ここからは山道で砂利道になる。その先に「瑞浪市内旧仲仙道の影」碑がある。
西の坂道を上ると右手に秋葉坂の三尊石窟がある。右の像は明和5年(1768)建立の三面六臂の馬頭観音立像、中央は明和7年建立の一面六臂の観音座像、左には風化が進んだ石仏が安置されている。石仏の前の石灯籠は天保11年(1840)の銘がある。なお、ここは石窟のすぐ上に秋葉様が祀られていることから秋葉坂とも呼ばれている。
秋葉坂を上ると鴨之巣(こうのす)道となり、左手の斜面上に「鴨之巣道の馬頭文字碑」がある。尾根道を進むと鎌倉街道(古代→東山道、中世→鎌倉街道、戦国~江戸初期→中仙道と呼ばれた街道のこと)と合流し、この追分を鴨之巣追分といい、日吉辻と呼ばれた。追分には右旧鎌倉街道迄約1里余りの道標や「鴨之巣辻の道祖神碑」がある。
尾根道を進むと鴨之巣一里塚があり、両塚を残している。地形上北側の塚が16m東方にずれている。江戸へ93里、京へ41里という一里塚で、ここからは鈴鹿、伊吹や北アルプスの山々が望める。
鴨之巣一里塚から山の中の道を通って、中山道は瑞浪市を離れ御嵩町に入る。坂を下り津橋の集落に入りと、「至御殿場」と刻まれた道標がある。ここが御殿場跡、物見峠展望台へ向かう物見峠口で、かなり急坂でもちろん車は通れない。
坂を上りきると、三ヶ所の馬の水飲み場があり、ここが物見峠(諸ノ木峠)で5軒の茶屋があった。峠右手には「御殿場展望台」がある。皇女和宮通行の際、休憩のためここに御殿が造られた。太田宿を出立して、御嵩宿で昼食をとり、ここで休憩をとって、大湫宿で宿泊した。展望台からは、恵那山、御嶽山が見えるのだが、霞んでいて見えなかった。
下り坂を進むと、「唄清水」がある。この地は尾張藩千村氏の知行地であった。千村平右衛門の句碑「馬子唄の響きに浪たつ清水かな」に由来する。岐阜県名水50選なのに「生水での飲用はしないで下さい」と書かれていた。さらに進むと左手に「一呑の清水」がある。皇女和宮の野立てに使われた清水である。これも名水50選に選ばれているのに「飲まないでください」と書かれていた。中山道を旅する人々にとって、一呑の清水は喉の渇きを潤し、旅の疲れを癒す憩いの場所だった。江戸時代末期、将軍家降嫁のために江戸へ向かった皇女和宮は、道中この清水を賞味したところ大変気に入り、のち上洛の途中、多治見の永保寺に寄られた時、ここの清水を取り寄せ、点茶をしたと伝えられている。
謡坂の石畳にほど近い北側の広い道路沿いに、聖母マリア像がある。像の後ろには「七御前」碑があり、仏教の墓石である五輪塔が多数ある。昭和56年(1981)、道路工事による五輪塔の移転が行われた際に、その下の地中から数点の十字架を彫った自然石が発見され、ここが仏教の墓地を利用したキリシタン遺跡であったことが判明した。不幸なことに日本では一時期キリシタンを信仰することが固く禁止され、密かに信仰していることが発覚すると命を奪われることもあった。この遺跡からは命をも顧みることなく信仰に打ち込んだ郷土に生きた先人の生き様が伝わってくる。この白いマリア像は昭和62年、そんな人々の霊を慰め平和を祈るために建立された。たまたま訪れたのが8月15日だったので、御嵩町観光協会の「平和の祈願祭」にも遭遇した。
左は十本木立場跡で現地案内板をそのまま記述する。「宝暦5年(1756)刊の『岐蘇路安見絵図(きそじやすみえず)』にも記載があるこの十本木立場は、もともと人夫が杖を立て、駕籠や荷物をおろして休憩したところから次第に茶屋などが設けられ、旅人の休憩所として発展したそうです。一方で古老の話しでは、参勤交代の諸大名の列が通行する際にはここに警護の武士が駐屯し、一般の通行人の行動に注意が払われたそうです」。右は謡坂十本木一里塚で江戸日本橋より94里目である。現地案内板によると、この一里塚は幕藩体制崩壊後必要とされなくなり、明治41年(1908)にこの塚は2円50銭で払下げられ、その後取り壊された。現在の一里塚は昭和48年、地元有志でかつての一里塚近くに復元されたものである。
歌川広重の「木曽海道六拾九次之内御嶽宿」モデルの地。広重画御嶽宿では、当時の庶民の旅で多く利用された「木賃宿」を中心に、囲炉裏を囲んだ旅人たちの和やかな会話が聞こえてきそうな様子を見事に描写している。広重の作品のなかに木賃宿が登場する例は非常に珍しく、軒下にいる二羽の鶏もまた、作品に描かれることはごく稀だという。この辺りに立場の共同洗い場である十本木洗い場、十数本の松と十本木茶屋があり、作品のモデルとして選んだ場所がこの辺りだという。右は現在の様子で、「いろは茶屋」が営業している。
謡坂の地名の由来は、この辺りの西方からの上り坂がとても急なため、旅人たちが自ら歌を唄い苦しさを紛らしたことから、「うたうさか 」と呼ばれていたのが次第に転じ、「うとうざか=謡坂」になったのだとも言われている。険しくつづく山道、道の上を覆うようなたくさんの木々、足元に生える草花など、謡坂の風景は今も当時の中山道の風情を色濃く残している。この謡坂石畳は、平成9年から12年度にかけて「歴史の道整備活用推進事業(整備)」として修復整備したものである。
謡坂石畳を下りながら、今来た石畳を振り返る。何か昔からあったような自然な感じを受ける。
謡坂石畳を抜けると舗装路に突き当たる。ここを左折し車道に出る。右側の急な石段の上に「耳神社」がある。全国的にみても珍しい耳の病気にご利益があると言われる神社である。小さな祠には平癒の願をかけて奉納された錐(きり)がいくつも下げられ、人々に厚く信仰されていたことがうかがえる。なお、元治元年(1864)、武田耕雲斎が尊皇攘夷を掲げて率いた水戸天狗党が中山道を通った時、耳神社の幟を敵の布陣と思い、刀を抜いて通ったと伝えられている。
道標を斜め右の西洞(さいと)の旧道に入る。西洞坂の下り坂になると、右手斜面の石窟の中に明和2年(1765)建立の三面六臂の馬頭観音が祀られている。台座には、寒念供養塔と刻まれている。寒念仏は一年で最も寒い小寒から節分までの30日間鉦を叩き、念仏を唱えながら諸所をまわる苦行であるという。
西洞坂は一段と急な下り坂となる。牛の鼻欠け坂(うしのはなかけざか)とも呼ばれ、荷物を背に登ってくる牛の鼻がすれて欠けてしまうほどの急な坂である。「牛坊牛坊どこで鼻かかいた西洞の坂でかかいた」という言葉が残るという。坂を下りると舗装路になって、この辺りから道標に従って右に左に曲がって進む。中山道全線を通してみるとここ牛の鼻欠け坂あたりを境にして、江戸へと向かう東は山間地域の入口となり、京へと続く西は比較的平坦地になる。従がって地理的には、ちょうどこのあたりが山間地と平坦地の境界線になっているのも大きな特徴といえる。
中山道は国道21号線に出る。その先に道標「右中街道中仙道大井駅達」がある。東山道時代は御嵩-次月-日吉-宿-半原-釜戸-竹折-大井の道筋で中街道と呼ばれていた。慶長7年(1602)に大井-大湫-細久手-御嵩間の道筋が新たに開削され、中山道に主役を譲っていた。しかし、明治になりこの中街道が大改修されると中山道に代わり再び主役となり、やがて現在の土岐市ルートに変更され国道21号線となっていった。中街道の道標奥に「和泉式部廟所」がある。中山道をたどる途中御嵩のあたりで病に倒れ、鬼岩温泉で湯治したが、寛仁3年(1019)この地で没したといわれている。碑には『ひとりさえ渡ればしずむうきはしにあとなる人はしばしとどまれ』という歌が刻まれている。
国道21号を西進すると栢森(かしもり)地区に入る。ここには栢森一里塚があったが、国道の建設などで無くなり今は何も残っていない。御嶽宿の東入口である道標の傍らに「栢森一里塚跡(50m東)」の案内標柱があったので確認したが、現在は池になっていた。右御嶽宿の道標に従がって国道を離れ進むとまもなく御嶽宿に入る。
御嶽宿は願興寺の門前町として栄え、東に細久手、大湫への難所を控え大いに賑った。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠28軒があり、尾張藩領であった。現在の御嶽宿の町並み(上)、願興寺可児大寺(蟹薬師)は弘仁6年(815)伝教大師による創建で、国指定重要文化財の仏像が24体がある。現在本堂を大修理中(下)。