大桑城は、室町時代後期に美濃国を治めていた土岐氏の居城跡で、急峻な古城山(407.5m)の山頂部付近にある。司馬遼太郎の長編歴史小説『国盗り物語』が、昭和48年(1973)に同名のNHK大河ドラマとして放送された。大桑城はこのドラマに度々登場、一躍その名が知れわたったのである。
私は地元の城跡でもあり、予てから一度登ってみたいと思っていたが、体力的に無理だと半ば諦めていた。その訳は、比高差345m、若い健脚者で所要約1時間、難易度A、体力消耗度大、九十九折の登りが連続、かなりハード、半分も登らないうちからバテバテ、イヤー疲れた!などの情報がWeb上に一杯みられるからだ。ところが、新しい林道が利用できるようになり、新登山道だと頂上まで700m、約20分で登れることを知った。そこで、早速、この新登山道で登ることにした。なお、この新ルートでは旧登山道上にある番所跡、馬ならし場跡、竪堀跡などは見れない。
※詳しくは 私のホームページ をご覧ください。スライド写真で、
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美濃 大桑城(おおがじょう)
所在地 岐阜県山県市大桑古城山
現状・遺構等
山上には曲輪跡、石積み、井戸跡や竪堀、曲輪群の削平地がきれいに残っている。麓の屋敷跡と推定される畑地には四国堀と称される堀と土塁が残る。昭和63年(1988)に、山頂近くの大桑城本丸跡地近くにミニチュアの大桑城(模擬天守閣)が造られ、ミニ大桑城と呼ばれている。
歴史
大桑城は、鎌倉時代から戦国時代にかけて現在の岐阜県山県市にあった山城で、旧山県郡高富町大桑地区と美山町青波・富永地区の境にある古城山(別名・金鶏山)の山頂付近に存在した。『美濃国諸旧記』によれば、逸見義重が承久の乱(1221)の功績によって大桑郷を領地とし、子の大桑又三郎が大桑城を築いたとされる(1250年頃か)。また、土岐氏9代目守護政房の弟にあたる定頼が明応5年(1496)に改築し、大桑兵部大輔と名乗って一代限りで住んだともいう。その後は土岐頼純・頼芸の兄弟が居城とした。永正6年(1509)には守護代の斎藤氏が台頭してきた事もあり、土岐氏は拠点を川(革)手城(現済美高校付近)から福光館(現岐阜市福光)に移し、さらに天文元年(1532)に枝広館(現長良高校付近)に移す。天文4年7月、長良川の洪水で枝広館は流失したため、当主の土岐頼芸は拠点を稲葉山山麓に移した。また、土岐頼純は越前国の朝倉氏の協力で大桑城を拠点とし、城下町を開く。天文11年(1542)に斎藤道三に攻められ頼芸は城を出たが、尾張国の織田信秀の仲介で和睦し帰城した。しかし天文16年に道三が再び侵攻すると落城して頼純は討死し、頼芸も本巣郡河内(現・本巣市外山川内)に逃れ、大桑城は道三によって焼かれた。その後、天文21年(1552)頃、再び道三に追放され、土岐氏の支配に終止符が打たれた。(現地案内/説明板、フリー百科事典ウィキペディアによる)
古城山を南方より望む。中央のこんもりと盛り上がったところに主郭がある。大桑城の南麓一帯は、今でこそ静かな農村地帯だが、かつてここには城下町が形成されていた。つまり、大桑は美濃の国の政治の中心であり、土岐氏は、今でいえば県知事や県警本部長のような役割を担っていたのである。

この案内板は、平成15年度事業で開設された椿野~はじかみ線林道の起点に立つ。この新しい林道経由で「新登山道」から登れるようになった(一部加筆)。

集落の一番奥に広い駐車場があり、旧登山道の道標とふるさとの里山大桑城跡と城下町遺跡群の案内板がある。熊出没注意の看板の左手林道を0.7km程進むと数台の駐車スペースがありその直ぐ先が林道の終点で、旧登山道(大手道)の入口である。新登山道ルートを登ることにしているので、大手道入口の場所だけ確認して引き返す。

ここから右手に約4km進むとはじかみ林道コースの古城山登山口に着く。途中に城山展望台がある。

広い駐車場とトイレも完備している城山登山道入り口。登り口には杖も用意され地元の心遣いが有り難い。古城山・大桑城の概要とこの地勢図の案内看板もあり、大変分かりやすくなっている(一部加筆)。

登り口はジグザグの道で途中アップダウンや階段状の道が続くが、案内も明瞭で道の整備も行き届いている。10分ほどで、最初の遺構、石垣・帯曲輪が現れる。伝「猿馬場」という削平地もある。さらに進むと南麓の集落が見下ろせる。

ここで(写真左上)旧登山道と合流する。山頂へ向かうと伝「臺所」、帯曲輪、石垣遺構がある。この辺りが二の丸跡(二の曲輪)か。二の丸跡から本丸(主曲輪)方面への最後の急な坂道を登って行く。

山頂下の平場に着く。正面に立派な城跡碑と祠があり、伝「天守臺」の標札があるのでここが本丸跡だろう。碑には「土岐頼藝城址」と刻まれている。頼芸の名前の呼称は諸説(よりよし、よりなり、よりのり、よりあき、らいげい)あり明確ではなかったが、第5代頼忠(別名頼世)の菩提寺である揖斐郡池田町願成寺の禅蔵寺過去帳に芸(ノリ)のルビが記載されていることが2008年に明らかとなっている(Wikipedia 2014版より)。

本丸の右手尾根に建つミニチュア模擬天守閣。高さは3~4mだがかなり凝った作りだ。大桑城関係年譜が掲示されている。

ミニ天守よりさらに一段高い位置が古城山々頂。山頂を示す案内板とベンチ、二等三角点「大桑城山」がある。山頂から北東部を望むと遠くに高賀三山(高賀山、瓢ヶ岳、今淵ヶ岳)が霞んで見えるが、どれがどれだか分からない。

頂上から、本丸、二の丸、はじかみ林道の分岐を経て、旧登山道を少し下りると三の丸跡の曲輪群、竪堀が見られる。

登山道の脇に霧井戸入口の看板がある。尾根から道のない急斜面をロープや樹木に掴まりながら50mほど下っていくと直径1mほどの伝「切井戸」(霧)がある。400年以上を経た現在もこのように残っているというのは驚きだ。なかなか立派な井戸で深さも相当ありそうだが落ち葉で埋まり確認できなかった。今まで幾つもの山城で井戸を見てきたが、この井戸はまさに感動ものだ。

椿野~はじかみ線林道沿いの城山展望台。北西方向にミニ大桑城が望める。南方には金華山(328m)が展望でき、岐阜城も確認できる。戦国期の土岐氏の時代は稲葉山、稲葉山城だった。

大桑城の屋敷跡と推定される麓の畑地には、「四国堀」と呼ばれる見事な空堀と土塁の遺構が今も残っている。案内板によると、当時の守護土岐頼芸が斉藤道三との戦いに備えて、美濃・尾張・越前・近江の軍勢の力を借りて造ったものを「四国堀」と称し、「越前堀」「外堀」というのもあったようであるが現在は残っていない。なお、地元には『戦国時代、急峻な古城山の山頂部に築かれた大桑城を、マムシの斎藤道三が攻めあぐねていたところ、青波(旧山県郡美山町青波・富永地区)の餅屋のばあさんの助言によって落城させることができた。以来、大桑(旧山県郡高富町大桑地区)と青波は集落同士の仲が悪い』といった物語が古くから伝わっているという。写真下は土岐氏の菩提寺「南泉寺」で第10代土岐頼純の墓がある。「心頭滅却すれば火も亦た涼し」の快川招喜も過ごした寺であり、名僧快川和尚の肖像画、土岐頼純の肖像画、土岐頼芸が描いた鷹の絵などの文化財を数多く所蔵している。

頼芸は、『美濃国諸旧記』によれば、天文16年(1547)に斎藤道三が再び侵攻すると落城し、本巣郡河内に逃れとあるので、大野城跡(現本巣市外山川内)か外山城跡(現本巣市外山小倉)辺りだろうか。地理的には大桑から西方に約15㎞、2つの山(峠)を越えた所で、大野城跡碑の裏面には、元弘元年(1331)外山四郎忠頼がこの地方9ヶ村を治めていたとある。また、根尾川を渡った揖斐川町谷汲岐礼の法雲寺には頼芸の墓がある。高さ約2mの自然石の碑面には「東春院殿左京兆文官宗芸大居士」と刻まれている。さらに右側の碑面には「天正十壬午年十二月初四日」とある。頼芸の晩年は、土岐氏の旧臣稲葉一鉄が谷汲岐礼に東春庵を設けて迎え、静かに穏やかに生きていたのではという。この墓は川西の山麓にあったものを昭和49年に現在の法雲寺に移した。天正10年(1582)歿 享年82歳。(この項岐阜県公式HPより)

美濃国守護土岐氏の守護所が置かれた大桑城のビデオ
岐阜県山県市大桑古城山のMAP