岐阜市内で現存する唯一の渡し 小紅の渡し | シニアの の~んびり道草

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日頃の散歩や近場のドライブ、時には一晩泊りでぶらっと訪ね歩くことがある。そんな折、おお! これは綺麗だ、これは凄い、これは面白いと感嘆したり、感動したようなことを、思いつくまヽアルバム風に綴ってみる。

「鏡島の弘法さん」として親しまれている乙津寺(おっしんじ)は、以前にも車で参拝したことがあるが、一度「小紅(おべに)の渡し」の渡し船に乗って参拝したいと思っていた。

そこで、毎月の縁日である4月21日に行ったところ、中旬に降り続いた雨で長良川が増水、運航休止になっていたので諦め引き返した。

5月3日は縁日ではないがゴールデンウイークの日曜日なので乗船客も多いのではと思い出掛けたところ、行きも帰りも乗船客は少なく貸切り状態だった。しかもこの日は、このところの好天続きで水位が下がり船着場は浅くなっているので、船を離岸させるのに船頭さんが苦労していた。なお、小紅渡船は船体の老朽化のため代替船により運行されてきたが、5/7から暫らく運休し、今秋には新たな船で再開するという。 




岐阜市内を流れる長良川。鏡島大橋と下流の河渡橋の間、岐阜市一日市場(ひといちば)の右岸堤防上に船頭小屋がある。小紅の渡しの由来、利用時間や休航日、乗船心得などの看板がある。
右岸堤防上の船頭小屋

右岸堤から、左岸の船着場、左岸堤の向うに鏡島弘法・乙津寺の森を遠望する。
左岸の船着場、乙津寺を望む

小紅渡船の航路は、川幅約100m、僅か2分の船旅。正式には市南部と本巣市を結ぶ、一般県道文殊茶屋新田線の一部である(左岸側から右岸側を見る)。小紅の渡しの由来は、渡しがいつ頃からあるか定かではないが、最初に史実に登場するのは元禄5年(1692)である。以後、長良川の川下にあった河渡の渡しが中山道の表街道として、小紅の渡しが裏街道として栄えてきた。また、加納藩の支領北方、文殊旗本本領への主要道であり、鏡島弘法(乙津寺)への近道としても大変賑わっていた。(渡船小屋の案内板から)
渡船航路は100m、僅か2分

往路の渡船の様子で、この日は好天続きで水位が下がり、操船がし難いようだ。堤防の階段を50段ほど下りると乗船場(左上)、4人乗りの小さな船で昔は手で漕いだが今はエンジン付、この日の船頭さんは女性(右上)、船上から上流側の岐阜城がそびえる金華山を望む(左下)、雨が少なく浅くなった左岸の船着場(右下)。
往路の渡船の様子

乙津寺境内北側の参道脇に立つ小紅の渡しの歴史案内板。案内によると、小紅の名の由来については、お紅という名の女性の船頭がいた、川を渡る花嫁が水面に顔を映して紅を直した、紅を採る草が生えていた、などの言い伝えがあるという。
小紅の渡しの歴史案内板

乙津寺境内の諸施設から、山門(左上)、浄水と乙津寺縁起碑(右上)、香・拝殿・大師堂(左下)、国宝安置殿(右下)。安置殿内には、国指定重要文化財(当時は国宝)の十一面千手観音像、毘沙門天立像、韋駄天立像などが収蔵されている。昭和20年(1945)7月9日の岐阜空襲で、寺の建物はほぼ全焼。だが、寺にいた高射砲部隊の隊員たちが、仏像を運び出し難を逃れたという。
乙津寺境内の施設

乙津寺(梅寺)の縁起碑。開山は奈良時代の天平10年(738)、行基が自作の十一面千手観音像を草庵に安置したのに始まる。弘仁4年(813)、弘法大師(空海上人)が嵯峨天皇の勅命を受けて七堂伽藍を建立、大師手植えの梅の古木があり梅寺とも称している。また、古来京都の東寺、神奈川の川崎大師とともに日本厄除け三弘法の一つとして深く崇められ、毎月21日の縁日は善男善女で賑わう。
乙津寺縁起碑

四国八十八ヶ所霊場の各寺院の御本尊を、大師堂をコの字に囲む形で石仏として一堂に集められた霊場。本四国八十八ヶ所霊場を一度に参拝できるミニ霊場である。
四国八十八ヶ寺霊場巡り

乙津寺の参拝を終え乗船場へ向かう。左岸堤防下の運航案内板(左上)、「小紅の渡し↑」と表示された階段を上る(右上)、堤防上から右岸側を遠望(右下)、堤防を下り川原の遊歩道を200mほど進むと船着場(左下)。
左岸堤防の渡船遊歩道

対岸の船頭小屋に向かって「白旗」を振って知らせると、直ぐ迎えに来てくれる。
白旗を振って迎えを要請

復路の渡し船の様子。長さ3mほどの竹ざおをぐいっと川底に差し船尾の向きを変えるのだが、水位が下がり難しそうだ。
復路の渡し船の様子゜

左は下流側の眺めで河渡橋の向うに伊吹山が望めるのだが、今日は霞んで見えない。下船し堤防を上がると短い船旅の終わりだ(右)。
下流側の眺めと下船して堤防を上る

300年の歴史がある渡し船「小紅の渡し」ビデオ


小紅の渡しMAP 岐阜市一日市場長良川右岸堤防