悲惨な会津戦争と白虎隊が眠る飯盛山 | シニアの の~んびり道草

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日頃の散歩や近場のドライブ、時には一晩泊りでぶらっと訪ね歩くことがある。そんな折、おお! これは綺麗だ、これは凄い、これは面白いと感嘆したり、感動したようなことを、思いつくまヽアルバム風に綴ってみる。

9月に、発生から3年半を迎える東日本大震災の被災地を訪れた折に、会津若松市に宿泊した。折角の機会なので、鶴ヶ城(この前の記事で紹介)と飯盛山を訪ねた。

会津といえば鶴ヶ城と飯盛山で自決した白虎隊の名が直ぐに思い浮かぶ。若き少年たちの悲劇は、時代を越えて胸に響くものがある。会津戦争は慶應4年(1868)に起きた戊辰戦争 (戊辰<つちのえたつ>の年の1月~翌年5月の16ヵ月余にわたって維新政府軍と旧幕府側との間に戦われた内戦) 最中に行われた戦闘の一つで、戊辰戦争最大の悲劇と言われる。この戦で会津藩は武家社会の悲劇を一斉に引き受けて滅亡し、江戸時代の終焉を知らせた。司馬遼太郎は『街道をゆく~第33巻奥州白河・会津のみち』で「歴史のなかで都市ひとつがこんな目に遭ったのは、会津若松しかない」と語っている。白虎隊の他にも涙なしでは語れない話が、会津の街のそこかしこに伝えられている。

鶴ヶ城と飯盛山は、私が住む岐阜県(美濃国)とは遠く離れているが、浅からぬ縁がある。その一つ、会津藩9代目の最後の藩主は、美濃国高須藩(現海津市海津町高須)から養子としてきた松平容保(かたもり)である。なお、あまり意味のないこじつけだが、2013のNHK大河ドラマ「八重の桜」で松平容保公を演じた俳優・綾野剛は岐阜県出身である。もうひとつは、美濃国郡上藩の「凌霜隊」の存在で、飯盛山にその顕彰碑が建っている。慶應3年(1867)大政奉還により、郡上藩は新政府に恭順する方針を固めた。しかし郡上藩江戸藩邸には佐幕の一派があった。江戸家老の朝日奈藤兵衛は幕府側が勝利した時の事を考え息子茂吉を隊長とする藩士47名を密かに脱藩させ幕府軍の一隊を結成させた。これが凌霜隊である。




参道入口の案内板と飯盛山全景。訪れたのが平日の5時を過ぎていたので、参道に軒を並べる土産物店のシャッターは閉まっている。
飯盛山全景と案内板

参道の境内案内図と私の参拝コース。正面の石段は183段もあるので、石段を上るのを避け、裏手を回るコースも案内されている。また石段に沿ってスロープコンベア(動く坂道、有料)もあるが、時間が遅いので営業を終了している。なお、日本では大変珍しい木造建築物「さざえ堂」(国重要文化財指定)も見たかったが、拝観時間を過ぎているので断念した。
案内図と参拝コース

正面が会津戊辰戦争において飯盛山で自刃した19士の墓、右側は会津の各地で戦い亡くなった白虎隊士31名の墓、左側の案内板の奥に、戦死した会津藩少年武士(白虎隊の仲間達)の慰霊碑がある。
白虎隊士の墓と案内板

自刃して亡くなった19名の白虎隊志士の墓。悲惨な少年たちの物語は今も人々の胸に語り継がれ、山腹の墓前には早すぎる死を悼む香煙が絶えない。
十九士の墓

この白虎隊19士の墓の周囲には、白虎隊士を偲ぶ数々の石碑や塔が建ち並んでいる。「少年武士慰霊碑」(左上)。碑には「白虎隊戦死者14歳から17歳」と刻まれている。白虎隊士と同じ年齢で県内各地及び新潟・栃木・京都で戦い、戦死した会津藩少年武士の慰霊碑である。「会津殉難烈婦碑」(左下)。この碑は、会津戊辰戦役で自刃又は戦死した婦女子2百余名の霊を弔うため昭和3年(1928)旧藩士山川健次郎氏(男爵、理学博士、帝大総長)等の篤志家によって建てられた顕彰碑である。ローマ市寄贈の碑(右)。白虎隊士の精神に深い感銘を受けたローマ市は、昭和3年ローマ市民の名をもって、この碑が贈られた。この碑の円柱は赤花崗で、ベスビアス火山の噴火で埋没したポンペイの廃墟から発掘した古代宮殿の柱である。基石表面にイタリー語で「文明の母たるローマは白虎隊有志の遺烈に、不朽の敬意を捧げんが為め、古代ローマの権威を表すファシスタ党章の鉞(まさかり)を飾り永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」。裏面に、「武士道の精神に捧ぐ」と刻まれてあったが、第二次世界大戦後占領軍の命により削りとられた(現地案内板より)。
少年、婦女子、ローマ市の慰霊碑

白虎隊士の殉難忠節に対して9代藩主松平容保公が詠んだ弔歌を刻んだ石碑。「幾人の涙は石にそそぐともその名は世々に朽じとぞ思う」。右下は鶴ヶ城天守閣一階に展示されている京都守護職時代の松平容保公。
松平容保公弔歌の碑

白虎隊士の墓がある広場から案内に従って進むと、白虎隊自刃の地がある。手をかざし彼方(お城)を眺めている少年隊士の石像が建っている。現地案内板には、「慶應4年(1868)8月23日(新暦10月8日)、年齢が16~17歳で構成された士中二番隊の白虎隊士は猪苗代から十六橋を越えて進撃した西軍と戸ノ口原で交戦するも、敵の軍事力に圧倒されて退き、戸ノ口洞門をくぐってこの地に至った。炎上する城下を前に、玉砕か帰城かを巡って、激論を戦わした。敵陣突入を提案する者もいれば、鶴ヶ城が簡単に落城するはずはないとして帰城を主張する者もいた。しかし、最終的に「誤って敵に捕えられ屈辱を受けるようなことがあれば、主君に対して大変申訳なく、祖先に対しても申訳ない。この場は潔く自刃し、武士の本分を明らかにするべき」との決断にはじめて、全員が同意し、一同列座し南鶴ヶ城に向かって訣別の意を表し、全員が自刃した。後、一名が蘇生。その名は飯沼貞吉である。なお、鶴ヶ城開城はその1ヵ月後であった。平成23年9月23日(飯沼貞吉書白虎隊顛末記参考)白虎隊の会」と記されている。
白虎隊士自刃の跡と石像

白虎隊士の石像がのぞんでいる方向が鶴ヶ城である。ここで少年隊士が城下町を見て、炎上する城下を前に落城したものと思い自刃した訳であるが、なるほど、ここから城下町を眺めると、城下の火災を城が燃えていると思ってもおかしくないと思える。白虎隊の自刃については、このように「城が落城したと誤解した」という理解と次のような説もある。「会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられ、最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされた。このうち一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たったが、二番隊は戸ノ口原で決定的打撃を受けて潰走し、戦死者も少なからずあり、負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びた。このとき、ここから眺めた戦闘による市中火災の模様を目にし、結果総勢20名が自刃を決行し、一命を取り留めた飯沼貞吉を除く19名が死亡した。一般に白虎隊は若松城周辺の火災を目にし落城したと誤認して悲観したとされている。一方、飯沼が生前に伝え残した史料によれば、当時隊員らは鶴ヶ城に戻って敵と戦うことを望む者と、敵陣に斬り込んで玉砕を望む者とのあいだで意見がわかれ、いずれにせよ負け戦覚悟で行動したところで敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった隊員らは、城が焼け落ちていないことを知りながらも飯盛山で自刃を決行したという。」(フリー百科事典ウィキペディアから抜粋)
自刃地から鶴ヶ城を望む

『白虎隊』の歌(作詞:島田磬也)の「詩吟」。背景画像は飯盛山の自刃地跡から鶴ヶ城をズームアップして撮影。
詩吟白虎隊の歌

飯盛山参道入口の案内板「絵本白虎隊の歴史 十、 飯盛山上の自刃」の項を抜粋したものと自刃の地から鶴ヶ城の方向をのぞむ白虎隊士の石像を別アングルで撮ったもの。
絵本白虎隊の歴史抜粋

白虎隊墓から自刃の地へ向かう途中に隊士の墓から離れて飯沼貞吉の墓がぽつんとある。白虎隊士中二番隊の自刃者で唯一蘇生した飯沼貞吉のお墓で、本人は生き残ったことを生涯潔しとせず、飯沼貞雄と改名して一生会津には足を運ばなかったという。昭和32年、戊辰戦役90年祭に遺髪と遺骨の一部が白虎隊の墓所に近い、ここ飯盛山の一画に埋葬された。彼が生き残ったことで、白虎隊の最後の詳細が後の世に伝わることになった。右下の碑は、大正13年皇太子殿下、同妃殿下御行啓に感激して、往年彼が詠んだ「日の御子の御影仰ぎて若桜ちりての後も春を知るらん」である。
飯沼貞雄翁の墓と歌碑

白虎隊墓のある広場から自刃の地へ向う入り口に、この「郡上藩凌霜隊之碑」がある。同様の碑は形は違うが出身地の郡上八幡城にもある。郡上藩も他の小藩と同じく、国元の恭順派と江戸在中の佐幕側との二派に分かれた。慶応4年、戊辰戦争が始まると、国元ではその年の2月に恭順したが、しかし江戸家老朝比奈藤兵衛は子、茂吉を脱藩させ江戸詰めの藩士で凌霜隊を結成させ、北関東から会津に転戦した。その後会津藩の指揮下に入ったが、会津藩の降伏とともに凌霜隊も降伏。のち東京に護送され郡上に送られるが、しかし藩の命令であったにも関わらず藩は新政府の目を気にして隊士たちを揚屋(牢屋)に入れ過酷な扱いを受けさせた。一時は処刑されそうになるが城下の寺の住職たちの嘆願により、後長敬寺に移され釈放されるが、世間の目は冷たく、隊士の殆どは離散したという。
郡上藩凌霜隊之碑

左上は郡上八幡城天守閣裏にある「凌霜の森」にある凌霜隊顕彰碑の案内看板。凌霜の森とはいえ、写真下の碑しかない。碑には凌霜隊の説明文と、凌霜隊士名が刻まれている。碑に刻まれている「道ハ一筋ナリ」の文字は参謀速水小三郎の日記の一文「抑道ハ一筋ナリ、君ニ忠ナルハ親ニ孝ナリ、皇国ノ御為ナリ、真ノ勤王ナリ、是ニ反セルハ不忠ナリ、不義ナリ、不孝也、国賊也、禽獣也、予子孫タル者熱く是理ヲ弁知スベキ也。」より抜粋したもの。右上の凌霜隊之碑は、城山の麓駐車場近くに建立されている。写真はいずれも2013.3.17に撮影。
八幡城の凌霜隊顕彰碑