現存する日本最古の天守閣 丸岡城散策 | シニアの の~んびり道草

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日頃の散歩や近場のドライブ、時には一晩泊りでぶらっと訪ね歩くことがある。そんな折、おお! これは綺麗だ、これは凄い、これは面白いと感嘆したり、感動したようなことを、思いつくまヽアルバム風に綴ってみる。

7月9日、越前丸岡城を訪ねた。北陸自動車道を金沢方面へ向かい、丸岡ICを過ぎると直ぐ左手に天守が望める。2011年11月に「越前竹人形の里」を訪ねた折にも、近くを通り間近に見ている。そんなわけで、いままで何度も目にしているのだが、訪れるのは初めてだ。

丸岡城は、日本100名城(36番)に選定されている名城である。また、「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」の日本一短い手紙として有名なこの一文が縁で、日本一短い手紙文の「一筆啓上賞」が始まったことでもよく知られている。地元坂井市では、この日本一短い手紙を題材に全国から手紙を募り、平成5年から「一筆啓上賞」(平成15年からは新一筆啓上賞)を設け、町づくり事業に取組んでいる。これまでに応募された手紙は100万通を超え、それらの手紙は本や映画にもなっているという。


丸岡城 (別名霞ヶ城)
所在地    福井県坂井郡丸岡町霞町1
形 式    平山城(城山の高さ17m)
現状・遺構等  
丸岡城は、日本最古級の現存天守(最古は犬山城と丸岡城の二説ある)である。明治4年(1871)、廃藩置県により廃城となり天守以外全て解体された。明治34年残された天守は、丸岡町により買い戻され解体を免れ、城跡は霞ヶ城公園となった。本丸を囲んでいた堀は、大正中期から昭和初期までの間に徐々に埋められ消滅した。現在、見られる天守は、昭和23年(1948)の福井地震によって倒壊した後、昭和30年に部材を組みなおして修復再建されたものである。屋根瓦にはすべて笏谷石(しゃくだにいし、福井市足羽山産の緑色凝灰岩を石工が加工)製の石瓦が、寒冷地であるという気候事情により葺かれているといわれる。なお、別名「霞ヶ城」の名の由来は合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説による。
歴史
今から430余年前の天正3年(1575)、織田信長は越前の一向一揆を平定するため大軍を派遣し、当時丸岡の東北4kmの山中にあった豊原寺(とよはらじ)を攻略し寺坊を悉く焼き払った。信長はこの恩賞として柴田勝家に越前之国を与え、北ノ庄(今の福井市)に築城を命じた。勝家は甥の勝豊を豊原に派遣し豊原城を構えたが、翌天正4年、豊原から丸岡に移り城を築いた。これが現在の丸岡城である。勝豊以後、安井家清、青山修理亮、同忠元、今村盛次、本多成重以下4代、有馬清純以下8代の居城を経て明治維新となった。大正中期より昭和の初期にわたり濠は埋められ、現在は本丸と天守閣と僅かに石垣を残し城域は霞ヶ城公園となっている。昔の城郭は五角形の広い濠を有し外郭に侍屋敷を配置し、さらに河川を利用し外濠を設け寺院民家を包容し城下町を形成していた。丸岡城は現存する天守閣の中で最も古い建築で、外観は上層望楼を形成して通し柱がなく、一層は二階三階を支える支台をなし、屋根は二重で内部は三階となっている。また、屋根が全部石瓦で葺かれているのが全国にも稀な特徴である。このような古調に富んだ望楼式天守閣は後の時代の松本城、彦根城、姫路城など層塔式天守閣と比較すると、いかに城郭建築の初期のものであるかがうかがえる。昭和9年国宝に指定されたが、昭和23年福井大震災により倒壊した。昭和25年重要文化財の指定を受け、昭和30年に修復再建された。(入城時配布のリーフレットより)




小高い丘の石垣上にそびえる丸岡城天守閣を、西三の丸(現在の霞町1、2丁目のあたり)から遠望する。最上階の望楼はふもとから約35mの高さがあり、天気が良ければ四方の窓が開け放たれ、城主になった気分で城下を見渡せる。
丸岡城遠望

天守閣への登り口に設置されている「昔の丸岡城の概要」復元イラスト。五角形の内濠に囲まれた中に、本丸・二の丸が配置され、内濠の外には三の丸が周囲を囲む。現在では、本丸のみを残して内濠も埋立てられ、本丸周辺は市街地となり、城山を巡る道路の形状に五角形の濠の面影が残る。
昔の丸岡城の概要

北陸唯一の天守を有する丸岡城は、日本最古といわれるだけあって古色蒼然としている。初層の入母屋屋根の上に望楼を載せた形式で、天守の初期形態を示すとされる回縁をめぐらせている。この角度が最もメジャーな天守の姿だろう。天守閣へは左下の石段を上がったところが天守入口となっている。
メジャーなアングル

石垣は野面積みで、隙間が多く粗雑な印象ながら排水が良く大雨に崩れる心配がないといわれる(左)。豪雪地帯のため外壁に比べて石垣が一回り大きく出っ張っている。そのため天守土台回りに雨水の流入を防ぐ、庇(腰屋根)が設けられている(右)。
野面積石垣、土台回りの庇

天守の鯱(上、左下)。現在の鯱は木彫銅板張りである。元々江戸時代の鯱は木彫銅板張りだったが、昭和初期の修理の際に(戦時中で銅板の手配が困難だった)石製に改め、昭和23年の福井地震で落ちてきたため、昭和30年の修復の際は江戸時代どおり木彫銅板張りに戻したという。天守へ登る石段横には、石瓦と同じ石材で出来た鯱瓦が展示されている。説明板によると、福井地震で天守が倒壊したときに落ちてきたものという(右下)。
天守の鯱

約6千枚の屋根瓦はすべて笏谷石(しゃくだにいし、福井市足羽山[あすわやま]産の緑色凝灰岩を石工が加工)製の石瓦で、1枚20~60㎏あり屋根全体で120tにもなるという(上)。2階の窓から見た笏谷石の石瓦はいかにも重たそう(左下)。入母屋破風棟の鬼瓦は笏谷石の彫刻である(右下)。
笏谷石の屋根瓦

天守内はスリッパに履き替えて入る。撮影禁止という表示がないので、写真はOKのようだ。左上は天守1階内部の様子で、太い柱が目に入るが最上階まで貫いているわけではなく、2、3階の望楼を支える構造という。右上(1階から2階)、左下(2階から3階)の階段は、重厚な城を支える天井の梁により、この場所にしか階段を設けることができず、このような急勾配になったという。階段は急なため観光客用に結び目のついた補助ロープが垂らされている。右下は3階天井部の木組みの様子で、天井板はなく梁がむき出しである。
天守内部の様子

1階に展示されている鳥瞰模型。よく出来ており、説明板によると模型内に忍者や馬などの隠れキャラが仕込まれているようで、それらを探すという楽しみもあるという。
展示のジオラマ模型

西側登城口の石段に立つ「國寶 霞ヶ城」の城碑。この碑は、昭和9年の国宝指定を記念し、同17年に霞城保存会が建立したが、その後、福井大震災で倒壊し、同30年に竣工したが、同25年の「文化財保護法」施行により現在は国指定重要文化財となっている。右は昭和23年6月28日の福井大震災により倒壊した当時の写真で、天守内に掲示されている。
霞ヶ城碑、震災写真

大入母屋の上に回縁のある望楼を載せた古式の外観から、現存最古の天守とも呼ばれている。回縁は外に出られない飾り的なものだが、天気が良ければ四方の窓が開け放たれ、当時の城主が眺めたであろう丸岡の町並み、坂井平野を一望できる(上)。天守望楼から東方面を遠望。ここから東方へ4km余りの山中に、かつての越前一向一揆の拠点となった豊原寺があった(下)。
天守回廊と展望

「一筆啓上」書翰碑。徳川家康譜代第一の功臣で鬼作左の勇名をとどろかせた本多作左衛門重次が陣中から妻にあて「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」と書き送った話は有名である。文中のお仙とは嫡子仙千代で、後の福井城主結城秀康に仕え、数度の戦に武勲を立て丸岡城6代目の城主となった本多成重のことである。この書翰碑は天守閣石垣の東北端に建てられている。
一筆啓上石碑

一筆啓上書翰碑が縁で日本一短い手紙文の一筆啓上賞が始まった。坂井市では、この日本一短い手紙を題材に全国から手紙を募り、平成5年から「一筆啓上賞」(平成15年からは新一筆啓上賞)を設け、町づくり事業に取組んでいる。これまでに応募された手紙は100万通を超え、それらの手紙は本や映画にもなっている。城周辺の散策路には、大賞、秀作、佳作などの入賞作品が掲示されている。上は「日本一短い手紙」(1から40文字の片道手紙)の経緯などを説明したポスター。下は掲示作品の一部。
短い手紙の経緯と入賞作品

現存する日本最古の天守閣 丸岡城(霞ヶ城)


越前丸岡城跡(現在の霞ヶ城公園一帯)