8月27日、中日新聞(朝刊・岐阜近郊)に、このほど“北方様”縁で北方町と高知・宿毛市が友好交流協定を交わしたとの記事が掲載された。協定書では、災害時の相互応援や観光・文化芸術面での交流などでの協力を定めているという。
※北方様とは、北方城主の弟(郷氏・さとうじ)の室 「通」(づう)[1533~1606]。
実は、北方城跡へは7月17日に訪れ、安東(藤)家と北方様、通姫(北方様)年譜は見てきたが、写真など未整理だったので新聞記事に触発され慌てて整理することにした。なお、美濃国内には北方城と呼ばれる城跡は2箇所ある。揖斐の北方城と本巣北方城で、今回訪れた城跡は後者、本巣北方城である。
北方城は明応年間(1492~1501)伊賀太郎左衛門光就が築城したのが始まりと伝えられている。4代後の守就(もりなり、安藤に改姓)は美濃守護職土岐氏の重臣で西美濃三人衆(安藤守就・氏家卜全・稲葉一鉄)の1人に数えられ、その後、斎藤道三に仕え、さらに織田信長に組するようになる。守就は織田信長の有力武将として各地の戦を転戦し大功をたて地位も確立したが、天正8年(1580)、嫡男で河渡城主である尚就が武田氏と内通をしたという嫌疑で失脚し北方城を没収され、守就は北方城を出て武儀郡谷口村(現関市)に蟄居した。本能寺の変で信長が死去すると守就は北方城を急襲し奪還するが稲葉一鉄に攻められ落城、主だった伊賀一族は討死した。北方城は平城で90m、120m四方の本丸を中心に3町四方の規模だったとされ、堀として利用していた天王川や水路が残るものの市街化されたため、ほとんど遺構が残っていない。北方城跡は昭和43年に岐阜県指定史跡に指定されている。
大井神社西に設置されている北方町案内図から、この記事の関係ヵ所を抜粋。
正面突き当りが大井神社で手前側に流れてくる水路は天王川。神社前の通りを天王川に沿って南へ下ると、赤い燈籠式の案内標識の傍に「県指定史跡北方城跡」の案内板があるので、表示に従って左に折れる。
左折した後、閑静な路地を進むと正面に竹薮がある。ここを右折するとクランク状に曲がった道路の脇に「史蹟北方城阯」碑が建っている。以前はこの周囲は竹薮になっていたらしいが、今はきれいに伐採されている。
北方城は土居で固められた平城で、土塁等の遺構は残存していない。本丸跡に建つ城阯碑や案内板。
史跡北方城跡の説明板と地籍図。
北方城イメージ図(資料をもとにしたものであるが、想像の域をでないという)。
安東(藤)家と北方様の碑。土佐藩の初代藩主山内一豊の実姉で、北方城主の弟(郷氏・さとうじ)に嫁ぎ「北方様」と呼ばれた「通」が縁で、北方町は高知県宿毛市と友好交流協定の協定書を結ぶ。通は尾張黒田城の城主だった山内盛豊の長女。安藤氏が天正10年(1582)に北方城をめぐる合戦で敗れた後は、弟一豊を頼って土佐に移り、宿毛で余生を過ごした。(2013.8.27中日新聞・岐阜近郊版から)
天王川沿いの道路脇には、北方陣屋跡であったことを示す案内板が立っている。左は陣屋跡の略図を拡大したもの。かつてこの辺りは安藤氏の居城があった地域だが、江戸期の寛文8年(1688)以来このあたりを治めた北方戸田氏の北方陣屋があった。
旧名鉄揖斐線北方東口駅の近くに、「安東伊賀守守就戦死の地碑」がひっそりと建っている。
安東伊賀守守就戦死の地の解説を刻んだ立派な碑。
※下のマップを拡大、縮小、スクロールして、北方城跡の位置関係、交通
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