木村幸弘とバックボ-ン
9月9日(日) 大阪で開催された 「木村幸弘とバックボ-ン」 のライブに行ってきました。
「木村幸弘とバックボ-ン」 と聞いて反応がある方は、相当な音楽通だと思います。
ただ、グル-プサウンズ関連の雑誌とかでは取り上げられる機会も多い。
簡単に言うと、伝説のジャズ喫茶 「ナンバ一番」 の人気バンドで、オックスを結成する前に、野口ひでとがボ-カルを担当していたバンドです。
2015年に 「初心忘れるな 木村幸弘とバックボーン・ライブ」 が開催されたのは知っていたが、今回は日頃からお世話になっている関西のOさんと九州のYさんが来られると言うので、二人に会う目的もあり大阪へ行きました。
この二人には自分は頭があがりません。
関西のOさんは、多くのGSメンバ-との交流があり、また普通は絶対誰も持っていないであろう、ジュリ-関連、GSやロックバンドなどの貴重映像を送って頂き、驚かされる事が多い。今回もお土産に貴重な映像を収録したDVDを頂きました。
当時の 「リンド&リンダ-ス」 の映像が観れたのも.関西のOさんのおかげです。
九州のYさんは、
何を持ってるの?
と聞くより 何を持ってないの?と聞いた方が早いくらい、GSや70年代のレコ-ドやCDを持っており、市販されている商品と勘違いする程、プロ顔負けのジャケ付きのCDやDVDを送ってくれます。
おかげでGSオンリ-だった自分が、70年代の音楽に興味を持つようになりました。
趣味が広がり感謝です。
今回も、野口ひでとファ-ストアルバム 「ひでとよりあなたへ」 の帯付きサイン付LPをCDにしてプレゼントしてくれました。
当日はYさんの知人数名と合流し、ライブ前に昼食を共にしてライブ後も味奉行での飲食。
とても楽しい時間を過ごす事が出来ました。
今思えば、最寄駅から徒歩5分のはずが、道に迷いタクシ-に乗りライブ会場へ到着に1時間くらいかかったのも良い思い出です。
「木村幸弘とバックボ-ン」 の素晴らしいステ-ジも含め、時間が経っても行ってよかった!と言う満足感が今も続いております。
木村幸弘氏 (ギタ-) は、81歳ともは思えない迫力あるギタ-プレイを披露、平井堅一氏 (キ-ボ-ド) の奏でる60年代の音色、相良建生氏 (ドラム) の安定したドラムに長江敏郎氏 (ボ-カル&ギタ-) のユニ-クなト-ク&迫力あるボ-カル、そして秋月克衛氏 (ベ-ス) のバンドを支える安定したサウンド、そして野口ひでと(ボ-カル)の,ファンを野口ひでとの世界へ吸い込ませる魅力。
今回もライブチケットが即日完売したのを納得させられる、パワフルなステ-ジであった。
余談だが、スパイダ-スの井上堯之にギタ-の基本から全てを教えたのが、木村幸弘氏である。また秋月克衛氏は、安岡力也とシャ-プホ-クスに参加しシングルレコ-ドを発売しています。
野口ひでとがMCの中で、ジャズ喫茶の楽屋に秋月克衛氏を訪ねて行ったら、最初に安岡力也が出てきて怖かったが、その後凄く親しくさせて貰ったと話していました。
またモップスと大喧嘩をしたのに、なぜかオックスとモップスはその後仲良しになったとも。
こう言う話は、ライブでしか聞けないですよね。
ただオックスは絶対に再結成しませんと断言した事は、何とかなく理由等はわかりますが、オックスファンである自分としては、目の前で発言されたのを聞いて少し残念でした。
当日のライブは、GSの曲も多く洋楽も知ってる曲ばかりで、聴きごたえある2時間30分
「恋はもうたくさん / ダイナマイツ」
「神様お願い / テンプタ-ズ」
「君に会いたい / ジャガ-ズ」
「好きさ好きさ好きさ / カ-ナビ-ツ」 他、
多くの曲で、会場を盛り上げました。
「恋はもうたくさん」 の様な、売れなかった曲でも50年後、こうやって評価されるのは嬉しいですよね。
この曲、「トンネル天国」 のB面ですが、近田春夫の深夜ラジオで初めて聞いた時は、てっきりA面で売れた曲だと思いました。
1メ-トル目の前で、「ガ-ルフレンド」 や 「 スワンの涙」 を歌う野口ひでとを観て、思わず失神してしまうのではないか・・・と言う程、感動致しました。
「オックス・クライ」 では、ライブ会場の盛り上がりが最高潮に達し、まわりを見たら、女性たちが10代にタイムスリップして輝いていました。
彼女たちの心の中には、いつも 『ドラえもん』 がいて、タイムスリップ出来るのでしょう。
タイムスリップしなくても、輝いてる女性たちばかりで会場は埋め尽くされていました。この女性たちは、きっと10年後も今のまま輝いていると思うし、輝いていて欲しい。
MCでは、野口ひでとが
今日は、「真木ひでと」 ではなく 「野口ひでと」 です。
「真木ひでと」 で出てきたら、演歌を歌いだしそうで・・・・
と客席を笑わせていました。
あと、当時の失神についても語り、さらにオックスのライブLP 『オックス・オン・ステージ No,1』 にも触れ、
あそこにいたファン達は、どこに行ってしまったのでしょう~?
と会場を笑わせていました。
確かに、あの会場にいた何千人のファンの今が気になります。
1969年に、このLPに収録されたコンサ-トが開催された 『名古屋市公会堂』 は、名古屋市重要建築物に指定され当時のまま現存しています。
また、オックスの失神についてもMCでは、ユ-モアも混ぜて語っていました。
ライブ後は、関西のOさんが親しくしている 「リンド&リンダ-ス」 の宇野山和夫氏のお店 『味奉行』 へ7人で行き、名物の餃子を食べながらGSや真木ひでとさんの話しをたっぷりしました。

当時の生写真やサインなど大量に持ってきてくれ、追っかけ50年の凄さにびっくり。
野口ひでとの販促用のポスタ-に、一緒に写ってたり、自分のように単なる雑誌しか見た事がない人間とは大違い。

全日本歌謡選手権で、真木ひでとが 「よこはまたそがれ」 で10週勝ち抜きの時に舞台に上がった方もいて、話しを聞いていてとても有意義な時間でした。

さらに気になる 「オックス」 の赤松愛の現在の話しまで飛び出し、驚きばかりです。
なぜ赤松愛の息子さんの嫁の話しまで知ってるのか、不思議でたまりません。
また皆さんにお会いしたいものです。
それにしても、 『味奉行』 の餃子は 『一くち餃子のブ-ム』 を作っただけあり、とても食べやすく何より種類が多く、一言で表すなら 上手い! と叫んでしまう味だ。
本当に美味しいので機会があれば、ぜひお店に行ってください。
宇野山和夫氏は、ザ・タイガ-スの前身である 「ファ二-ズ」 に「明月荘」を紹介した関係でメンバ-との関係も深い。
お店には、タイガ-スのメンバ-が 『味奉行』 に来て一緒に写った写真が飾られている。沢田研二が座った席に自分も座って写真を写しました。
前日は、九州のYさんと関東のKさんが夜中の2時まで飲んだ話を聞いて、自分も次回は夜中まで 『味奉行』 で飲みたいと思いました。
店のトイレで沢田研二が、ミラ-ボ-ルだと大騒ぎして大喜びしたと聞いたので、自分も入ってみたが、ビックリ!
スイッチを押すと音楽が流れ、まるで狭いディスコの雰囲気を味わう事が出来る。
ジュリ-が大喜びしたのも納得。
もう、随分も前だが宇野山氏にはお世話になった事がある。
リンド&リンダ-ス~ザ・サニ-ファイブの高木和来氏の娘さんから、亡くなったお父さんの写真が全然ないとの相談を受け、どうしたらいいのか悩んでいた時に、高木和来さんとリンド&リンダ-ス時代に親しくしていた宇野山氏が手を差し伸べてくれ、高木和来氏の娘さんと連絡を取ってくださり、貴重な写真の数々を送ってもらった事があります。
その話を少ししたら、宇野山さんは覚えててくれました。
あの時は、自分の周りの人達がとても喜んでくれた。奇跡だと・・・・
宇野山さんは、ミュージシャンとしての活動と並行して俳優もしているアクティブな方です。
宇野山さんとリンド&リンダ-スについて少し書きます。
宇野山さんは18歳で 「ザ・ハリケーン」 に加入しプロの道に進んだのですが、当初はスチールギター奏者でした。
「ザ・ハリケーン」 で宇野山さんの横でベースを弾いていたのが、後に 「オックス」 を成する福井利夫さん。
その後、福井利夫さんが 「ザ・ハリケーン」 を脱退した為、給料が倍になる条件で宇野山さんはベースに転向し、19歳で関西若手NO1ベーシストと言われるようになりました。
同じ頃、後にリンド&リンダ-スを結成する 「加藤ひろし」 は、ジャズプレイヤーを目指し、有名、無名のバンドに顔をだしてはセッションに明け暮れていました。
そんなある日、関西NO1プロダクション 「タ-ゲットプロ」 の古川益男社長から
「加藤くん、若者だけのバンドを結成してみないか」
と持ちかけられ、ジャズを志す気持とは裏腹に、若い未熟な夢だけを追う十代の若者達とグループを組むことになった。
当時、京都の河原町通りの近くに 「田園シアター」 と云う複合レジャービルがあり、ビルの中にキャバレーやダンスホールが入っており、後のリンド&リンダースのメンバ-は 「ダンスホール田園」 に出演。
宇野山氏の 「ザ・ハリケーン」 は 「キャバレ-田園」 に出演していました。
その時の 「ダンスホール田園」 に出演していたバンドメンバ-は、高木和来 (ギタ-)、 吉田 (ギタ-)、 森本 (ベ-ス)、ドラム島頭 (ドラム)、加賀哲也 (ボ-カル)、榊てるお (ボ-カル)であった。
その後、森本 (ベ-ス) が脱退し 「加藤ひろし」 が間を取り持ち、「ザ・ハリケーン」 で関西若手NO1ベーシストと言われていた宇野山和夫氏を誘い、「加藤ひろしとザ・リンド」を結成。
加藤ひろし氏は、若いバンドのメンバ-に対し、極めてスパルタ方式で鍛えていたようだ。
例えばステージの合間にレコードを買ってきて
「次のステージで演奏するから聞いておけ!」
メンバーはポータブル電蓄にかじりついて、30分ほどでコピーしてステージで演奏。演奏を間違ったメンバーは髪の毛を捕まれ
「お前は頭がわるいなぁ」
とやられるのは日常茶飯事であったようだ。
宇野山氏に言わせると、それからの音楽人生にはその時の経験が大変役に立ったとの事でした。


京都市下京区四条河原町下ル (河原町仏光寺北西角)
当時、「加藤ひろしとザ・リンド」 の前座バンドがザ・ファニーズ。
その後、ファニーズは 「ナンバ1番」 のハウスバンドのオ-ディションを受け合格。
住む所がない為、宇野山和夫氏が 「ザ・ハリケーン」 の中川しげおが東京に出て行き空き部屋になっていた明月荘を紹介、中川しげおが住んでいた部屋とその隣の部屋に 「ナンバ一番」 のオーディションを受かったばかりのファニーズの五人が住む事になりました。
ファニーズのメンバ-は、まだ貧しく保証金も前家賃も無いので、宇野山さんが管理人のおばさんに無理をたのんで後払いで入居させました。
沢田研二は、自分の部屋にマジックで落書きをしたのですが、後年 『明月荘』 を訪ねた時に、その文字を懐かしく見ていました。
また明月荘では、宇野山さんの部屋の隣に高木和来 (リンド&リンダ-ス~ザ・サニ-ファイブ) が住んでいました。
(残念ながら、高木和来さんは2008年7月に他界)
暫くして、rデビュー曲の 「ギター子守唄」 が、加賀テツヤのソロシングルとして発売される形となった(1967.2.15)
このレコ-ドが、そこそこ売れた為に少し問題が発生。
ダンスホールで演奏していた頃のバンドリ-ダ-であった、高木和来氏が加藤ひろしの強引なやり方に不満が募り、親も巻き込んでの問題に発展した。
最後は、バックバンドのリンダ-スもレコ-ドデビュ-させる事で決着。
デビュー曲は 「燃えろサーキット」。 曲のイントロでギターとベースだけでレーシングカーのエンジン音を表現してしまっている、ある意味凄い曲です。
このイントロのベ-スは宇野山和夫氏。
当時、事務所の社長から 「君のその髪型は、明日からでも公務員になれる!やめなさい」 ときついお叱りを受けましたそうです。
この曲を最後に高木和来氏、迎修二氏は脱退し、サニ-ファイブを結成。
サニ-ファイブがレコ-ディングした 「思い出の京都」 は、応援してくれていた京都の舞妓さんが焼死してしまい、その二人に捧げた名曲です。
レコ-ディング時は、メンバ-全員涙が止まらず何度も何度も録音しなおし、やっと完成した曲。とてもいい曲ですので、ぜひ聴いてください。
またドラムの島頭氏が
「俺、辞めるわ」
の一言をのこして脱退、代わりに浜田藤丸氏が加入。
その後、「売られたギター」 「銀の鎖」 を発売した所で宇野山和夫氏は脱退。
リンド&リンダ-スは、その後 「夕陽よいそげ」 「ハ・ハ・ハ」 「夜明けの十字架」 を発売。
1969年に加藤ひろし氏と堀こうじ氏が脱退したが、その後も活動を続け日本万国博覧会にも出演したが、ついに解散する事になった。

ラストシングル 「夜明けの十字架」 を加賀テツヤは一度だけ、解散後歌っています。この時、40年ぶりに歌いますと披露。
しかし、「夜明けの十字架」 を歌うのは解散後、この時が最初で最後になってしまいました。
「木村幸弘とバックボ-ン」 の話しを書いたつもりが、かなりあちこちに話が飛んでしまいました。
関西のOさんより、瞳みのる氏に関する新聞記事を送って頂きました。
ザ・タイガ-スが東京進出したあと 「ナンバ1番」 で人気があったのが 「ザ・ライダ-ス」。
ライダースもライオンズと名前を変え、東京進出しました。