坂本龍馬と妻りょう

 

三浦半島の話でなぜ坂本龍馬?と思ったが、妻りょうの墓が横須賀にある寺にあるという。

 

坂本龍馬とりょうは、寺田屋で出会い、りょうは有名な寺田屋事件で龍馬の窮地を救った。

 

その二人が長崎へ向かうことになる。龍馬は海援隊という海運会社なのか私的な海軍なのかわからないような一種の株式会社を作っていて、薩摩、長州、越前福井の三藩が出資している。

 

私は、龍馬は革命家のような印象を持っていたが、そうではないらしい。革命そのものが望みではなく、世界を相手に貿易をすることが彼のやりたいことだった。そしてそのためには、日本が世界に対して開かれた統一国家でなければいけなかったのだ。

 

海援隊は海上に浮かぶ1藩のような印象を持たれていたため、龍馬は薩長両藩の大事を託され、薩長同盟を成功させる。なぜ薩長同盟だったかというと、幕府と向き合える大きな連合隊が必要だからである。維新への道を進めるためだった。

 

その後、維新への道が進まなくなった時、次は大政奉還という解決策を龍馬は掲げ、土佐藩の後藤象二郎を通して徳川慶喜に提案させる。

 

そして龍馬は非業の死を遂げ、りょうの運命も変わっていった。

 

りょうは一旦は龍馬の生まれた土佐にいたようだが、再び東京、そして晩年は横須賀に住んだという。

墓が横須賀にあるのはそのためだ。

 

横須賀から峠を南下するとペリーが来航した浦賀にでる。

幕末の騒乱は、この三浦半島久里浜から始まった。

 

ペリーの来航によって、国際社会に入ろうという派と国を閉ざして外国人を追い戦う派。この二つに分かれた世論は、驚いたことに、国際社会に入ろうという方が保守派だったらしい。開国派の佐久間象山は、鎖国攘夷の過激派からのテロに遭っている。

 

龍馬は、最初は攘夷だったが、勝海舟に会って世界の中の日本を考えるようになったという。ペリー来航がなければ、龍馬はずっと攘夷派だったかもしれない。

 

司馬遼太郎は、このペリーショックがなければ、龍馬は天寿をまっとうしていたかもしれないと言っている。ペリーによって世界に目を向けることになった龍馬は、志半ばの32歳で死ぬ。

 

龍馬の兄は、龍馬のために町道場を建ててやり、剣術を教える平穏な生涯を送らせようと考えていたようだ。

ペリー来航は、龍馬をそうさせなかった。

 

まわりまわって龍馬の運命、そして妻になったりょうの運命も大きく変えてしまったというのが、筆者の見解であった。

 

まだ行ったことのない久里浜に立ち、幕末の混乱と龍馬やりょうの運命に思いを巡らせてみたいと思わせてくれた章だった。