太平洋戦争におけるキスカ島とアッツ島
太平洋戦争は、日本側が太平洋に散らばる島々に兵力を分散させた戦争だった。
その理由は、ただ1つ、オランダ領東インドの石油を押さえるというところからきていることに司馬遼太郎は気づいたという。
その石油を押さえるためにマレー半島やシンガポールの英軍、フィリピンの米軍などを攻めて、それは成功している。だから、北の島などは触る必要がなかったのに、緒戦における南太平洋での成功が陸海軍の作戦者たちを驕らせたと筆者はみている。
米国領アリューシャン列島のうち、キスカ島とアッツ島に目をつけ、日本軍は無血上陸する。この太平洋のもっとも北に位置する島の占領は、本来石油が目的ならば全く意味がない。
その後、日本からの補給が途絶えがちになったところへ、米軍がアッツ島に来襲し砲撃を加え2000名余りの日本軍はほぼ全滅。
次はキスカ島。5600人余りいた兵力を撤退させるために大本営は作戦を立てる。
このキスカ島の撤退は、敗色が濃い昭和18年において、撤退とはいえ鮮やかに成功した唯一の例だそうだ。
キスカ島の撤退を任された木村昌福(まさとみ)という人は、艦隊を指揮してキスカ島の全員を収容する。
この時の作戦は、海霧を利用するというもので、1回目にキスカ島に接近した日は珍しく晴れていて、木村は引き返す。大本営からは石油の無駄だと悪い評判がたったらしい。
2回目に接近した日、運がいいことに米軍はたった1日だけ島の包囲を解いて補給基地に行った日だった。このたった1日に木村は滑り込むようにキスカ島の湾に入り、わずか55分で5000人以上を収容してキスカ島をあとにしたのだ。
米軍はその後約2週間にわたって、キスカ島がもぬけの殻だということに気づかずに攻撃し続け、ついには3万4000の上陸部隊とともに大艦隊がやってくることになる。
この章で、僭越ながら司馬遼太郎と同じく感動し且つ信じたいと思ったことは、キスカ島から救出された人々がアッツ島沖を艦で通った時、島からバンザイの声が沸くのを聞いたという人が何人かいたという話である。
「魑魅魍魎談は好まないが、この話ばかりは信じたい」と書いた筆者の気持ちは、まさにキスカ島から帰還する人たちとともにあるように感じられた。
アッツ島は全員死んで、キスカ島は全員救出された。戦争の罪とも言える運命の分かれ道。
こんなことは、今の日本にない。急に戦争に自分の人生が取られることも、ただの運命で死を選ぶしかないことも。
戦争で起こる耳を覆いたくなるような悲惨な死や悲しみはこれまでも本やドキュメンタリーなどで見聞きしてきたけれど、この話は初めて知った。うまく言葉にできないけれど、孤立したアッツ島の18日間の戦いは酷いという他にない。最後は生存者150人が最高指揮官とともに米軍へ突入している。
木村という人は、戦後自ら自分の手柄を語ることはなかった。昭和32年に元連合艦隊参謀の千早という人が木村に取材してその事実が世間に知られたが、取材に来た千早に対して木村は「(手柄は)自分じゃない」と話さず、イエスかノーで答えるということでようやく取材に応じ、3年もかかった。
「文藝春秋」にその千早氏の文章が出てもっとも驚いたのは木村の家族だったという。木村は手柄話を家族にもしていなかった。これは「海軍はスマートであれ」という明治以来の教えが生きていたのかもしれないと感じられるエピソードなのではないかと思う。
木村は実に慎重に作戦を遂行した筆者は述べている。空も海も包囲された島に小さな艦で行くことは並大抵のことではなかったはずである。その慎重さが、運を味方につけたと言えるのだろう。
用意周到であること。これ以上やることはないというくらいに考えて準備してこそ、運が味方してくれたのだと私は思った。