三浦半島と海軍
三浦半島記には海軍の話がたくさん出てきた。
一貫して述べられているのは、海軍出身の人たちは、海軍に愛着を持つということだ。
軍というと、不条理な命令や仕打ちに誰もが嫌気をさし、二度とあんなところには行きたくないと思うものだと私は勝手に思っていたがそうではなかった。
陸軍出身の司馬遼太郎も、その辺りが面白いらしい。
「海軍はどうも陸軍とは違った世界だったようである」と述べている。
筆者の言い方だと、陸軍はまず個人の名誉心や自負心を砕くところから始まるらしい。これが私の軍へのイメージでもある。
一方海軍には、「海軍軍人はスマートであれ」という教育の基本理念があったため、個々の名誉心が濃厚に残されていたと筆者はみているようだ。
その一例として、魚雷に体当たりして死んだ一人の兵の話がある。
まだ特攻隊が組織されていない時期、空母から飛び立ったある兵は空母に魚雷が近づいているのを発見し、自ら体当たりして空母を救おうとしたという。
空母を飛び立ったこの兵には命令があったはずだが、このとっさの判断には「個人」というものがなければならなかったのだと筆者は分析している。いわば、自由な意志によって自己を犠牲にしたと。
この話には続きがある。米軍からこのとき発せられた魚雷は6基あり、そのうち2基が空母に向かい1基には兵士が体当たりした。もう1基が空母に命中しているのである。
この時の空母の名前は「大鳳」といい、ミッドウエー海戦で使用した艦の飛行甲板が爆弾にもろかったという理由で随分厚くされたりして頑丈に作られた。
この頑丈さは、魚雷が1基命中しても、「何事もなく悠々と走っており」とのちに記述されているほどだったらしい。
しかし、全部のガソリンタンクに破孔が生じ、それが元で大爆発を起こして2000名余の乗員のうち生き残ったのは500名であったという。
魚雷が命中したのは午前8時10分、大爆発を起こしたのは午後2時32分とある。
その間、何事もないように航走していたのは、不沈空母と言われたほどの頑丈に作られた構造にあったのだが、それが返ってあだとなった。ガソリンのガスと重油の揮発性ガスが船内に充満、引火した時に爆撃に耐えるための分厚い甲板は下からの爆発を抑えてしまい、結果的に爆発による圧力を強めてしまった。
大爆発を起こした時の描写は読むも無残。
1500人は戦いではなく、この爆発による圧死、焼死によるものだ。戦争の悲劇の中には、こんな惨さもあると思うとやり切れない。
筆者は「一掬の水」という表題をここでは掲げている。一掬とは、両手ですくうという意味である。両手ですくえるほどの水をかけても火事は消せないが、敗色の濃くなった昭和19年あたりは、そのようにして多くの人が命を捨てたと表現している。
そしてその際立つ例が、魚雷に体当たりした兵だったと。
このように、司馬遼太郎や司馬遼太郎が参考にした書物を執筆した人たち、すなわち元連合艦隊参謀だったり、艦に乗っていてのちに要職についたような人々によって、戦争時の様子、個人の行動などがクローズアップされた人は、我々が知ることができる。
しかし、そうではない無名の、でも悲惨な状況の中で日本のためにと命を捨てた多くの人たちのことを、我々は陳腐な想像力で思いはかるしかない。
事実は小説よりも奇なり、とあるように、我々の想像をはるかに超えた凄惨な出来事がそれこそ数え切れないほどあったに違いない。
それに比べたら、今の日本は平和すぎる。もっと自分たちはやらなくてはいけないことがある。ソリの合わない上司とかママ友とかそんなこと気にしているのは、ほんとにどうでもよいことだ。
だって、明日自分の家が爆撃されることはまずないのだから。
もっと自分を俯瞰して、やるべきことをやっていかないといけない。無駄にする時間はない。