鎌倉の最期
鎌倉幕府は頼朝の鎌倉入りから北条高時の滅亡まで150年続いた。
鎌倉幕府の誕生は、私は単に武士が公家から政権を奪い新しい日本を作ることになったとしか思っていなかったが、そうではない。
幕府によってなし得ることができたもっとも大きなことは、土地制度が定まったということだった。
武士とは、この三浦半島記になんども出てくるが、農場主である。
律令制の下では土地の所有権が常に不安だったが、鎌倉幕府の成立によって所有者のものになったというのが、武士たちの道理を安定させたのだ。
一所懸命という言葉は平安末期の武士の言葉と言われるが、その土地を守るためには親戚をも平気で殺害するくらいの執念があったから、自分たちの土地が守られるというのはどれくらい重要であるか、現代の我々には想像が及ばない。
しかし、その道理が通る世の中、というのは人心掌握ができているリーダーがいるということが大前提にある。人々が忠義を尽くすに値する人物がいなければ、荒々しい武士達をまとめることはできなかった。
ところが北条高時は、そのような才に欠けていた。さらに、宋からの貿易で宋銭が入ってきていて、頼朝の時代よりも経済は複雑になっていて価値観も変わっていく。
そのような背景もあり、後醍醐天皇を隠岐から脱出させた、武士だか海運業者だかわからない名和氏と鎌倉幕府は戦う羽目になる。この戦い時に、なぜ北条氏からあごで使われなくてはならないのかと裏切った新田義貞と足利尊氏によって幕府は滅亡する。
新田義貞と高時の戦いは、非常に激しかったらしく、この三浦半島記の最後の部分は、鎌倉で今もこの合戦時の人骨が発見されるというものだった。わずか60坪の土地から910体の人骨が出たというのだから、合戦の凄まじさがわかる。
素人目には大きめの白い石くらいにしか見えないものも、鎌倉では実は人骨である可能性が高いらしい。これにはびっくりしたが、司馬遼太郎が、「鎌倉武士の節義と死への潔さについては博物館で見ることはできず、山道でも歩いて細片を見つけて感慨を持つ以外にない」と表現しているのには感服だった。
鎌倉武士をおもんばかる筆者の言葉の使い方が絶妙で、同時にこの三浦半島記を読むと、誰もが三浦半島、特に鎌倉を歩きたくなってしまうのは必然のことのように思われてならなかった。