鎌倉とその周辺の地形について、新たな知見を得た。

 

鎌倉に頼朝がなぜ入ってそこに首都の象徴として鶴岡八幡宮を造営したかといえば、その地が源氏のゆかりの地であったからだ。

しかし、鎌倉の若宮大路の先にある海は、遠浅で波も高く港をつくれる場所ではなかった。

 

そこで港が作られたのは六浦(むつら)と地名の残る横浜に通じる海らしい。対立する三浦氏との間に戦いが起こった場合は、そこに房総半島からの兵を船で集め、鎌倉に参集させるということをやっていたのではないかという説があるようだ。

 

その港から鎌倉までの道は、朝比奈切り通しと呼ばれているが、「吾妻鏡」の中では六浦道と呼ばれていたことからも、海港と鎌倉を結ぶための道だったことがわかる。この道は昭和31年に新道が作られるまで実に700年も使われている。

 

戦いのためだけではもちろんなく、様々な物品や文化が六浦に集まり、鎌倉に運ばれて行ったに違いない。宋からの船もここに入ったらしい。横浜という港町は(六浦は今の横浜港よりずっと南ではあるが)はるか昔の1240年ごろから、異国との玄関口であったことを知ると、なんだか感慨深い。

 

私は、学校の日本史の授業で「鎌倉は3方を山に囲まれ、残る1方は海で防御しやすいため自然の要塞だった」と習った。

でもそこに、港が作れないということは想像すらしていなかったし、そのために起こる鎌倉側の不利な点についても考えが及ぶことはなかった。そしてわざわざ別の場所に港を作ったということも、作らねばならないもう一つの理由(軍事的な目的)もあることを今回初めて知った。

 

ところで、今回読んだ部分で、なるほど!と特に膝を打ちたくなり、かつ感動したところは六浦という名前の意味である。

これは、この海に湾がいくつも入り組んでいて、錨を下ろす場所がたくさんある、という意味なのだそうだ。

司馬遼太郎はこれを「よろこびの地名だったに相違ない」と表現している。

 

よろこびの地名・・・こんな表現をされている場所なんですよって、今そこに住んでいる人に伝えたくなるような気持ちに、私はなった。