鎌倉時代の武士について。
平安末期から鎌倉時代にかけての武士、つまり関東武士団は人間の集団として特異だったと司馬遼太郎はいう。
彼らは廉恥という感覚を色濃く持っていて、生死には鮮やかで戦いに望めば臆することがなく、自分の生にも他人の生にも冷淡であると。
廉恥とは、心が清らかで恥を知る心が強いこと、潔く清く正しいこと、と辞書にはあった。
その「特異」な人たちの1つの例として登場する人物は、鎌倉権五郎景政という人である。
彼について残っている話はこうだ。
彼は、16歳の時秋田県横手での遠征に参加し、そこで右目を射抜かれる。
しかしそれを抜こうともせず相手を射返して倒し、さらに戦って本陣に引き返した。
その様子を見た彼のいとこが、矢を引き抜いてやるために倒れこんだ景政の顔に片方の足を土足で乗せ、矢柄を掴んで引っ張ろうとすると景政が刀を抜き下から突こうとした。
飛び退いた彼のいとこに「面を踏むな。矢に当たって死ぬのは武士の本懐、面を土足で踏まれるのはあって良いことではない。これからは汝こそが敵だ」と言ったという。
彼のいとこは謝り、片膝をつきそれで片頬を押さえて矢を引き抜いた。その間、景政は声もあげなかった。
この話、続きはない。
その後景政がどのような生涯を送りいつ死んだかなどは全く伝わっていないらしい。
しかし、これは関東中に景政の名を広めた。
右目を射られながらも敵を射倒したということ以上に、痛みに対して平然としていたという強さに、「廉恥」という言葉を司馬遼太郎は使ったのだろう。
彼の子孫は、景政の子孫であるという気負いがあり、源平の戦いでも勇敢に戦っている。
そんな武士たちが、鎌倉の世では関東から特に近畿以西、九州までの各地に守護地頭として配置されたので、この関東武士団の気概が様々な藩で踏襲され、特に薩摩藩ではそれが喜ばれたため鎌倉色が強いそうだ。
景政の話だけでなく、この時代の武士たちは「一つのことに賭ける」というのがあって、例えば那須与一が源平合戦で扇を射抜いたとか、先陣を誰がやったとか、一瞬の華やかさ、名声のために命を賭けていた。
このような「潔さ」みたいなものは、現代の日本人いや昭和の頃までは受け継がれていたのではないかと個人的には思う。
景政の子孫は「権五郎社」という神社を作って景政を祀った。
この決して大きくはない神社は、司馬遼太郎の目にはとても清らかに思えたらしい。それは建物は小ぶりだが、それを囲む森が美しいからだという。
景政は神になるような聖者ではないけれど、並外れた彼の生気が今はこのような美しい森になっている思えば、祭神として立派であると思わざるをえない、と結ばれた文章に 、その神社に足を運び実際に森を見た筆者の景政に対する尊敬の念を感じた。
今の令和の時代にはそぐわないかもしれないが、日本人の心の奥底には、こんな景政の心持ちが少しは残っていると私は思いたい。