金沢文庫の由来について。

 

いつか行ってみたいと思っている金沢文庫。現在は近代的な建物として県立金沢文庫となっている。



この金沢文庫ができたいきさつは、北条時頼の時代にまでさかのぼる。時頼の執権時代に小侍所の別当という職についていた北条実時が金沢文庫を興した。

 

実時は、武芸にも訴訟事務にも長けていた人だったが、何より好学の人だったという。現在の横浜市金沢区になる金沢(かねさわ)に領土があったため、金沢実時とも呼ばれたらしい。

 

この地域は鎌倉の外港である六浦があり、軍事と経済と外国文化導入の要の場所だったから、実時にとっては書物の収集に好都合であった。実時の関心ごとは、農学、文学、軍学そして儒学に及んでいる。当時京都で儒学の権威は清少納言を出した清原氏で、実時はその当主を京から招き入念な教授を受けたとのことで、相当熱心であることが伺える。

 

鎌倉は火災が多く、実時の鎌倉の屋敷も2回焼け、せっかくの蔵書も灰になったことから、書物を金沢におくことにして保存のための建造物も作ることになったというのが、金沢文庫ができたいきさつなのである。

 

実時を2代目とする金沢北条氏はのちに滅亡することになるのだが、権力者たちの中で、この文庫を滅ぼそうとするものがいなかったし、家康が持ち出した書籍は江戸城に、明治後は宮内庁で保存されたそうだ。

 

金沢文庫は称名寺という実時の住まいの中にある。

 

火災を恐れた実時は、称名寺が焼けても書物は守れるようにと、文庫は小山1つを隔てさせている。

その小山にはトンネル(文中では隧道)を作って行き来しやすくするというこだわりようである。

 

鎌倉草創期には、実時のように学問に長け、後世までの益になるようなことを残した人はいなかったと司馬遼太郎は断言している。

時頼が執権の時は、鎌倉時代の中でもっとも安定していたため、人々は戦うことだけではない人生の愉しみのようなものを見出していたかもしれない。

 

もっとも、実時は武芸にも長じ、平和ボケしてきた武士たちを前に喝を入れたという話も残っているから、単に実時という人物がことのほか優れていただけかもしれないが。

 

司馬遼太郎に、北条一族から多くの逸材が出たが実時はその一人と言わしめるのは、金沢文庫を興したという1点だけで十分であるけれど、さらに「人物・器量共に、いささかの空虚さもない」と言い切っているところに、様々な資料から出てくる実時の人となりに司馬遼太郎自身が感銘を受けたのだろうということが推察された。