秀吉と鎌倉
鎌倉時代の執権を担った北条氏ではなく、京都から流れてきた一人の浪人が別の北条氏を名乗るのが室町時代後期である。
その名は北条早雲。しかし本名は伊勢新九郎というらしい。
私はてっきり北条早雲はその地で代々武士をまとめる当主だと思っていたのだが、全く違っていた。一介の浪人が三浦半島を保っていた勢力を攻め、相模を制し関東一円を手に入れて北条氏を称したという。
この北条氏は、執権の北条氏と区別するために「後北条氏」と呼ばれている。
後北条氏は、5代100年続いた後、秀吉に滅ぼされる。兵糧攻めによって100日の籠城が終了し、秀吉が手に入れた関東は家康へと渡る。
ここでは、関東と京都の文化の違い、鎌倉と安土桃山時代の人の考え方の変化についての記述が特に面白いと思った。
まず、関東は相変わらず京都付近の中央から見れば田舎である。いくさとなれば、関東武士は生真面目に戦うことに集中していたであろう。しかし、秀吉の戦い方は違っていた。
秀吉が城攻めに長けた人物である、ということももちろんあるが、いくさの途中で士気を高めるために配下の武将の妻子を呼びよせさせたり園遊会をやったり、能狂言を催したりなど、関東武士には考えられないことであったとのこと。
それを見せられた関東武士たちは、自分たちの生真面目さをばかばかしく思ったに違いない、と司馬遼太郎は書いている。
そのように思わせるのが秀吉の作戦だったのか、それともそんな城攻め・いくさの仕方がみやこ風だったのか。
いずれにしても、後北条氏は秀吉に屈し、関東を明け渡した。
次に、時代を経て人々の考え方の変化がわかる、という点についてである。
鎌倉時代はいくさに負ければ全員が自刃するような風潮だったし、生き残った子供でさえ追いかけて殺すような文化だった。だからもし小田原落城が鎌倉時代にあったならば、籠城で立て篭もった人々はみな自ら死を選ぶか、死ねなかったものは殺されていたであろう。
しかし、安土桃山時代はそうでなくなっていた。
小田原落城の折、自刃したのは主要人物だけで、あとは皆助けられた。
世が進めば人々もものやわらかになるらしく、と筆者は考えているが、しかしその後は必ずしもそうなっていない。
近代史における幕末の国内戦争と2度の世界的戦争は、世が進めば人がものやわらかになったとは言えない。
それは、古代史と近代の違いとして片付けられることなのだろうか、とも思う。
本当は、筆者が言うように「ものやわらか」になって、戦いなどない世の中になっていかねばならないのである。
それが、今この時になっても、世界には紛争地域があることを考えると、人間の愚かさを感じざるを得ない。
秀吉は、手に入れた関東を家康にそっくり渡す。お世辞にもいい土地とは言えなかった当時の関東を家康にくれてやったのは、家康を駿河から切り離すためか、どうでもいい土地だったからか。
でも秀吉は、家康にものすごいアドバイスをしている。
家康に江戸の町をしっかり作れるようにという思いやりにも通ずるものだとしたら、秀吉って本当にすごい。