3.11東日本大震災から14年。
私は、震災が起きて一カ月後に、石巻に落語を演りに行きました。
テレビも、落語界も自粛ムードのなか。
不謹慎だ。という空気があるなか。
余震も続き、新幹線も高速道路も主な国道も、
全てが復旧されていないときに。
私は、被災地に落語を演りに行きました。
プロ、アマ問わず一番最初に、
慰問で落語を演らせて頂きました。
あのときが、私の原点だ。と思っております。
毎日新聞さんが、
その当時、記事にして下さいました。
良かったら読んで下さい。
2011年(平成23年)5月12日(木)毎日新聞 愛知版
「 一方通行じゃない 」と実感
東日本大震災から1カ月余りたった4月14日午前。
二ツ目の落語家、立川平林(37)は宮城県石巻市の北上中学校の近くに止めた軽自動車「モコ」の運転席に再びいた。
被災地を落語で慰問するために前日、愛知県東浦町の実家を出てやって来た。予告はしていない。
いったん、避難所になっている同中体育館に入った。
何百人もの被災者や、動き回るボランティアを目の当たりに、平林は「立ちすくんだ」。
ボランティアの手伝いならまだしも、ここで落語はできない。
無言で車に戻った。
地震発生時、東京、上野での落語会を前に、サウナに入っていた。
余震は続く。怖かった。
翌日夜、新幹線で実家に逃げ帰る。
震災以降、東京などを自粛ムードが覆った。
平林は「お笑いってなんだろう」
「こういう時に落語をやっていいのか」と思った。
「被災地を無視し、被災者の気持ちがわからずに、これから全国の人たちに伝わる落語ができるはずがない」。
被災地で落語を、と思うものの、悶々とする日は続いた。
「大切な人たちを失った人の前で、落語をやれるだろうか」
「僕は有名人ではない。被災地で喜んでもらえないのでは」。
怖さがつのる。
余震や放射能も恐怖だった。
見知らぬ土地で独りで考えたかった。
3月末から約10日間、四国を巡った。
その揚句の行動にもかかわらず、現地入りしてなお繰り返す逡巡と躊躇。
「自分が被災者でも落語ができるか」と自問した時、
1年前の父の死を思い出した。
「親父、見ててくれよ。オレは生きていくからな」と、
平林は父の死亡当日から葬儀まで3日間、高座を務めた。
この気持ちで臨めば、被災者に失礼にはならないだろう。
車を出て、再び体育館に。
ボランティアのリーダー格とおぼしき男性に
「失礼でなければ、落語をやらせていただきたいんです」と告げる。
答えは「喜びますよ」だった。
即席の高座を作ってくれた。
ステージの前にいすを持って20人程が集まる。
舞台に肘を乗せて見つめる子たちがいる。
選んだ一席は「真田小僧」。男の子が父親に、母親が浮気しているかのような話をして小遣いを取る噺だ。
体育館の中で確保できたわずかな生活スペースで、じっと聴き入る人も少なくなかった。
拍手がきた。
泣いている人たちがいる。
平林は、「落語での親子のやりとりには、被災地で今までは当たり前だった家族の幸せな風景がある。聴いている人がズーンと感じてくれた」と受け止めた。
終わると、約50人の子どもが集まり、サインを求めたり、まとわりつく。
昼食の讃岐うどんの卵とじを一緒に味わった。
平林は「気持ちが伝わったことが、とてもうれしい」と言う。
初めて「落語をやった」という気持ちになった。
客への一方通行だった落語が、変わる気がした。