先生、ぼくが「勇気」という言葉を聞いて、最初に思い浮かべたのは「学校のトイレ」です。怖い話ではありません。かわいい話です。

 

 果たして、それを「勇気」と呼んでいいのかは分かりませんが、健気なキナリ少年にとっては間違いなく「勇気」だったのです。

 

 どうぞ、なんとか努力をしていただき、この話を「勇気」と結びつけながら聞いてくださると幸いです。

 

 

 

 

 小学生の頃。ぼくは引っ込み思案というか、人の影に隠れているのが好きというか、目立つことが苦手な少年でした。愛嬌のある表現をするならば、超シャイボーイ。

 

 それは視力が悪かったことも影響していたと思います。なんたって、人と喋っていても自分には見えていないモノの話が飛び出してくるんですから、当然です。

 

「わぁ! 飛行船だ!」

 

 とクラスメイトが窓の向こうを指差しながら叫んでいるとき、ぼくの目には飛行船が映りませんでした。ぼんやりと、それっぽいモノが浮かんでるのは分かりますが、確信は持てません。

 

 でも、みんなが目をキラキラさせて空を眺めるもんだから、ぼくもそれに合わせていました。本当は空を舞うゴミ、くらいにしか見えていないのに。それをムリヤリ「飛行船だ」と思い込むようにして、空を一緒に眺めていました。

 

 そんな生活を続けていると「もしかして、ぼくが見てる世界は間違ってるのかもしれない」という気がしてきて、どんどん言葉を飲み込むようになってしまう。

 

 世界を認知する機能が劣っている、という劣等感が、ぼくをシャイボーイにさせたのだと思います。

 

 

 「勇気」の話でした。

 

 そんなシャイボーイのぼくは、とにかく「発言」することが苦手でした。ただでさえ視力が悪く、勝手に「仲間はずれ感」を抱いていたのですから、もし変な発言をしてクラスメイトに笑われるようなことになったら、これまで以上に「仲間はずれ感」を抱いてしまいます。

 

 シャイボーイの上に、「寂しがり屋」と「ビビり」が乗っかっていたのです。

 

 授業中に発言するなんて、正気の沙汰とは思えません。

 

 だから、積極的に手を挙げていたケンキくんのことを本気で尊敬していましたし、「じゃあ、ここの文章を読んでみてください」というアキコ先生が苦手でした。

 

 あ、言い忘れましたが、この頃のぼくは、シャイボーイ、寂しがり屋、ビビりだけでなく、〈文字が読めない〉という特殊能力も備わっていました。

 

 いや、「読めない」という表現は誤解を生むかもしれませんので、もう少し詳しく記述します。

 

 厳密には、なにが書いてあるかは分かるのです。文字は習いましたからね。読むことはできるんです。「きよく、ただしく、うつくしく」という文字も読めてました。

 

 でも、文章になるとダメだったんです。

 

 もっと正確に言えば、「行」になるとダメだったんです。

 

 

「今日は、一号公園に行きました。楽しかったです」

 

 

 までは読めるんです。

 

 それが、

 

 

「今日は、一号公園に行きました。楽しかったです。なにが楽しかったかといえば、やっぱり鉄棒です。右足をかけて上体を倒しクルクル回っていると、自分がケバブみたいな気分になるんです。回り終えると、あたしの周りをハエがブンブン飛んでました。本当にケバブになっちゃったのかと思った!」

 

 

 こんな文章は、もう最悪です。

 

 読んでるうちに気を失う感覚になるというか、視界が真っ暗になるのです。平たく言えば、寝てしまうのです。

 

 一番のネックは、文章を読んでいても「次の行」に進めないこと。どういうわけだか何度も同じ箇所を読んでしまい、次の行に目を移すことができないんです。迷路に迷い込んだような心細さに襲われて、目の前が暗くなる。

 

 だから「ここ読んでみて」と、発言を求められる国語の時間が本当にイヤで、いつもアキコ先生と目が合わないよう、息を潜めるように授業を受けていました。(そもそも目が合ってるかどうかも、視力が悪いから分からなかったんだけど)

 

 とはいえ、いざ当てられたら仕方ないんですけどね。冷や汗はダーダーです。声も震えます。指を使いながら文字を追って、なんとか行を読もうと努めます。何度も言葉に詰まり、全身が熱くなり、硬直する。そして、終わる頃には疲れ果てて寝てしまう。そんな少年だったんです。

 

 なんの話をしていたのでしょうか。

 

 そうそう、「勇気」でした。何度もすみません。

 

 この忘れっぽさや、話の脱線もぼくの悪いクセであり、シャイボーイの原因でもあると思います。そう、「勇気」でしたよね。

 

 まぁ、つまりは小学校低学年のころ、学校に行くのがツラかったのです。でも、健気なぼくは親に相談することもなく、メガネを買い与えてもらうこともなく、毎日が大冒険の心持ちで通っていました。

 

 だから「毎日、勇気を使っていた」とか、そういう話ではありません。早く、本題に入れって感じですよね。すみません。やっと本題に入ります。

 

 

「トイレに行きたいです」

 

 ということが言えなかったんです。

 クダラナイとお思いでしょうが、ぼくの性格上、切実な問題だったのです。本当に言えなかった。そもそも恥ずかしくて挙手もできないんだから、言えるわけがない!

 

 しかし、人間だもの。

 

 言わねばならない時が来ます。

 

 言わねば「もれる」のですから。

 

 汚い話をしてしまい申し訳ございません。でも、人間だもの。綺麗なものだけをみて過ごすわけにはいきません。綺麗なものもあれば、反対に汚いものも存在するんです。

 

 イヤ、汚いものがあるからこそ、綺麗なものが存在できるのかもしれません。

 

 ……そんな話は、今はいいんです。「トイレに行きたい」が言えなかったって話です。

 

 トイレに行きたいキナリ少年には、二つの選択肢が与えられました。

 

「漏らして、恥ずかしい」か「喋って、恥ずかしい」か。

 

 先生は、どちらを選択しますか?

 

 そりゃぁ、今は大人ですから、迷うことなく「喋って、恥ずかしい」を選ぶと思います。

 

 でも、当時のぼくは、すぐには答えを出せませんでした。

 

 だって、そこには「勇気」が必要だったから。

 

 これね、「漏らして、恥ずかしい」には「勇気」がいらないんですよ。シンプルに恥ずかしくて惨めなだけだから。自尊心とか、そっち側の領域の話になるんです。

 

 でも後者はチガウ。

 

 手を挙げる。「はい、キナリさん」と言われる。「トイレに行きたいです」と言う。小学生ですから、周りからは「ウンコかよ!」というヤジが飛んでくると思われます。ですが、そんなヤジをものともしない強い気持ちが必要です。そして、気丈に堂々と教室を横切る必要があります。

 

 手を挙げる「勇気」

 発言する「勇気」

 ヤジに耐える「勇気」

 恥ずかしさに耐える「勇気」

 孤立に立ち向かう「勇気」

 

 「勇気」だらけなんです。

 

 少年は時計を凝視して、自分のお腹と相談をします。なんとか授業を切り抜け、ダッシュでトイレに向かうことができれば勝ち、なんです。

 

 でも、時計の針は壊れてるのかと思うくらい、ゆっくり進みます。こういう場合は、たいていムリなんです。素直に発言した方がいいんです。でも、少年はこめかみから汗を流しながら悩んでしまう。

 

 でも、悩んだからとて、結論を出せるほどの意思もない。

 

 そして、ついに出口からヤツが顔をのぞかせたところで、手を挙げました。

 

 「勇気」を振り絞れず、どちらかというと「観念した」という感じです。顔は真っ青、唇はガタガタ。

 

「どうしましたか?」

 

「しぇ、せ、先生、と、トイレに行ってもいいですか?」

 

「ああ、……どうぞ」

 

 クラスはシーンとしていました。みんな気付いたんだと思います。少年のただならぬ雰囲気に。子どもだからといって、なにも感じないワケではないんです。むしろ、その力は大人以上。察する力もあるんです。「あいつ、ヤバいな」くらいは分かるんです。

 

 ぼくは、そろそろと教室を出ることができました。この先のことは、ご想像にお任せします……。

 

 

 

 

 先生、ぼくは「勇気」という言葉を聞くと、このことを思い出すんです。

 

 ついつい、「勇気」と「観念」が結びついてしまう。

 

 そのせいか、今でも自分は「勇気」のない方だと思います。「トイレ行きたい」くらいは言えるようになったけど、根本治療が済んだわけではありません。なるべく「勇気」のいらないところに身を置いているし、行動理由のほとんどが「観念」からきてると思います。

 

 そう。だからあれ以来、ずっと思っていたんです。

 

 勇気が欲しい、勇気が足りない、と。

 

 まさに勇気コンプレックスなのです。少しカッコつけて「ブレイブ コンプレックス」とでも言っておきましょうか、ネ。

 

 

 ぼくは、いつだって「勇気」を欲しています。

 

 「勇気」をテーマに生きている気さえするのです。

 

 「勇気」ってなんなんでしょうか。

 

 先生、どうか教えてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 内田樹さんの「勇気論」には、そんな「勇気」について考えるヒントが詰まっていました。

 

 思考にキックを入れられました。

 

 今日も「勇気」を持って、ガンバリマス!