「死にたいんじゃなくて、いなくなったほうがいいって考えてしまう。歳をとって、体力が衰えてくれば特に。」
平野啓一郎「本心」の336ページに、こんな文章があった。えんぴつで線が引かれ、ページの角が折られていた。
目を見張った。そして、大きく息を吐きながら、椅子の背もたれに寄りかかった。珍しく人の少ないスタバ。店内にジャズ風の音楽が流れている。
このページを折った人を知っている。線を書いた人を知っている。頭の中がぐるぐると回った。……この本は、母の書斎から拝借した本だったのだ。
ぼんやりした頭で「どうして母は、このページを折り、さらに線まで引いたのだろうか。」と考えた。
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この小説は、亡くなった母をバーチャル空間に作り出す、というところから物語が始まる。
そして、母とは一体、誰だったのか。
自分とは誰なのか。生きているというのは、どういうことなのか。
など、根源的な問いと向き合い、時間と共に丁寧に歩んでいく。
安易な表現だが、読了後「傑作だ」と思った。頭を背もたれに乗せて、ああああ、と体の底から声を漏らした。これから先、きっとこの本を何度も読み返すだろう。自分にとって大切だと思えた。だからこそ……
「母は、なにを考えながら、この本を読んだのかな。」
そう思わずにはいられなかった。もっと正直にいうと、この本を読みながら私や弟のことを想像したのだろうか、とまで考えていた。
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不謹慎極まりないが、私はこれまで幾度となく「母の死」を想像してきた。
改めて文字にしてみても、なんて不謹慎なんだろうかとビックリする。こんなこと、口が裂けても人には言えない。言ってはいけない、問題発言だ。誰もが眉をひそめるだろうし、SNSでの発信なんて、もってのほか!
だから自分用に、あくまで自分用に、「日記感覚」で記していく。……
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死を想像する、といっても、映画やドラマで描かれるような「遺体」を思い浮かべるわけではない。ただただ、〈いなくなること〉を想像するのだ。私は、それを「死」と定義していた。……
どこを見渡しても、見当たらない。いない、という状態。
スマホの中には情報が残っていても、ふと顔を上げると、そこには誰もいない。写真も、電話番号も、LINEのやり取りも、みんな残っている。でも、本人はいない。
……そんな想像だ。そんな想像を繰り返してきた。……なぜ。
それは、ある種の防衛本能に近いのかもしれない。山道を歩いているときに、クマと遭遇したらなにをするか。今、この場で大地震が来たら、どこへ逃げるべきか。そんなことを想像することと似ている気がする。
「そんなん困る!」という恐れがあるから、考えるのだと思う。
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人によっては「親に依存してるだけだろう」と思うかもしれない。たしかにそうだ。親に依存。溢れている言葉。よく目にするし、耳にする。
でも、私が「母の死」を想像するのは、依存してるからではないと思っている。母に依存……、いやいや、ちがうちがう。さすがに、もう少し距離は感じている。離れているからといって禁断症状が出るワケでもないし。……
杖とか、浮き輪、お守り、と表現すれば、依存との違いが分かりやすいかもしれない。これがなきゃ絶対にダメというわけではないが、あると「安心感」を抱ける存在。
そして、いざという時に「助け」になる存在。別に積極的に世話をして欲しいわけではない。むしろ面倒だったりもする。でも、近くにいると、どうしたって安心する……。
私の場合、ずっとそんな距離感で親と接していた。
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そんな親も、老いていく。
年を重ねただけ老いていく。
気付けば親は高齢者となり、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ばれる存在になっている。
そもそも、その事実を受け入れることに苦労した。自分の年齢を考えれば当然のことなのに。自然の摂理なのに。いつかはくる、と分かっていたのに。現実をリンクさせることが難しかった。そして、やっとリンクできたと思ったら、今度は「死」を想像するようになっていた。
そうだ。「母の死」を想像するようになったのは、大人になってからだった。
幼い頃は、虫や動物の「死」は想像しても、友人や親、人間の「死」について考えたことは少なかった。
今から思うと、考えることを放棄していたのかもしれない。直感的にイヤなことは、考えないことが一番の処方せんだった。
それが年齢を重ね、何度かの「死」と直面し、経験を積んでいく中で変化した。「母」と「死」の距離が近づいていったのだ。考えずにはいられないというか、どうしたって目の前に現れてくるというか。
放棄してきたものは、遅かれ早かれ、いずれ自分の前に現れるということだろう。
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話が逸れた。
母は、小説「本心」を読みながら、なにかしらの思いを馳せた。ページを折ったところ、線を引いたところを読むと、胸がザワつく思いがした。なんで、ここに注目したのだろうか。……
ちなみに冒頭に引用した文章だが、文章の前後も知らずに読むと、かなりインパクトがあるので、さっくりと補足をしておく。
この本には「自由死」というテーマが盛り込まれている。死を選ぶ権利、と言ってもいい。私には言葉が足りなすぎるので、ぜひ本書を読んで欲しいが、自分で「死」を決めることについて、深い思索がなされている。
引用箇所は、まさにその「自由死」について議論を交わす、会話の抜粋だ。ここに母は、マークをした。
最初はシンプルに「母も、この文章と同じことを思ったのだろうか」と考えた。つまり歳をとり、体力が衰えたから、自分はいなくなった方がいい、と。
以前、母から「筋力が落ちて、すっかり重いペットボトルの買い物はできなくなった」と聞いたこともあったから、なおさらだった。恐くなった。そんなん、やめて、と思った。
でも、引っかかることもあった。母は「まだ死ねないなぁ」と目に希望を宿しながら呟いたこともあったからだ。どうやら、やり残したことがあるようで、なにかを達成させようとするエネルギーを、ひしひしと感じたのだ。
では、なんでページを折ったのか。線を引いたのか。……
同時に別の考えもよぎった。それは祖母のことだ。母の母のことだ。自分の母(祖母)に対して思うことがあったから、母の心が動いたのだろうか。……
そういえば、卒寿を迎えた祖母の口から、よく聞く言葉があった。
「あたしは、しあわせだ」
「もう、じゅうぶんだ」
しあわせだ、は分かる。でも、じゅうぶんだ、は分かるようで分からない。なにが、じゅうぶん、なのだろうか。人生に対する感想なのか。じゅうぶんに生きた、ということ?
そして、じゅうぶんだから、なんなのだろうか。もう死んでもいい、ということ? そんなことって、ある? 分からない。でも、たしかに「じゅうぶん」という言葉を使った。
もしかしたら、母も、そんな祖母のことを考えていたのかもしれない。母にもその言葉の意味が理解できないからこそ、物語を通して理解しようとしたのだろう。……
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……なんてことを思いながら、実際に母に聞いてみた。
本を開き、指をさす。ページが折れ、線が引いてある。そこに、さらに私はフセンを貼っていた。賑やかなページだった。
「母さん。なんで、この文章に注目したの?」
母は目を細めたあと「だめ、メガネなきゃ読めない」と叫ぶ。そして、メガネをかけてからも、さらに目を細めた。
「ん……。ああ、これね。よくこんなこと書けるなぁ、と思ってさ」
ん? よくこんなこと書けるなぁ、と思って? ん? どういうことだろうか。
「平野啓一郎って、まだ若いんでしょ? それなのに、こんな深いことを書けるなんてねぇ。感心しちゃってさ」
予想外の返答に、笑ってしまった。全然ちがった。
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もしかしたら本心を語らなかった可能性もある。だって、子どもの前で、母は母の顔になるのだから。それは子どもの側だって同じだろう。だから、その瞬間……
私の知らない母が、母の中には、いる。
そんな確信が胸に宿った。
実際、祖母の前では、またいつもと少し違う母になる。友人といる時に見せる顔。仕事仲間と一緒の時に見せる顔。どれも母だが、私の知ってる母とは少し違う。
いや、私の知ってる母なんて、母全体のほんの一部にすぎないのだ。無意識のうちに、母を知ってるつもりになっていたのだ。
それは、母に限った話ではない。全ての他者に対しても言えること。知った気になってるだけで、本心なんて分からない。
『本心』を読んで、改めてそんなことを考えた。
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最後に、私が付箋を貼った、文章を引用してみる。
439ページに出てくる文章だ。
わからないからこそ、わかろうとし続けるのであり、その限りに於いて、母は僕の中に存在し続けるだろう。
ああ、よくこんなこと書けるなぁ!
傑作だ!