「天才」に憧れた。
とても、憧れていた。
学生時代、テスト前には夜なべして勉強していたクセに『ぜんぜん勉強してないから不安だよ』なんて発言をしてきた。勉強していないのにテストでいい点数がとれる、という「天才」演出をしてきたのだ。
苦労を顔に出さず、汗を滲ませることもなく、微笑を頬に浮かべながら、流し目で物事を完璧にこなしていく。それでいて意思は強く、他人に流されることもない。自分のやるべきことを正確に把握し、スピード感を持って決断していく……。
そんな「天才」に憧れていたのだ。
しかし、現実はそう甘くなかった。
テスト結果は散々なものばかりで、「本当に勉強してなかったんだね」と言われる始末。友人には、ただの「不真面目なヤツ」と思われただろう。
自分なりに勉強してるつもりなのに結果がともなわず、理想と現実がズレていく。そこでズレを修正しようと努力するならまだしも、あっけらかんと「天才の道は遠いなぁ!」と空に向かって呟くばかり。いつまで経っても「天才」にはなれなかった。
あれから何年経ったか分からない。
だが、あの頃抱いた「天才」への憧れは、今も胸の中でポッポと火照っている。諦めが悪い、というのか。何も学んでいない、というのか。はたまた、ただのアホなのか……。自分でも驚くほど「天才」に憧れている。
今でも「勉強してない」発言ではないが、「人を油断させ、天才を演じようとする」試みは続けている。
ある舞台の現場に入った時。
先輩俳優に「オレ、全然セリフ覚えてないんだけど、もうセリフって覚えた?」と聞かれ「いえ、今日から覚えます!」と即答した。すでにセリフは覚えているのに、だ。
そこには「不安になっている先輩を少しでも安心させたい」という気持ちもあったが、それよりも「苦労なくセリフを覚えることができる天才に思われたい」という気持ちの方が大きかった。
そして先輩は、セリフを覚えてきた私の姿を見て、「天才」という言葉は使わずに「裏切り者」と言い放った。
やっぱり「天才」にはなれなかった。
少しでも自分を弱く、小さく見せる努力をする。そして、いざ、というタイミングで最大のパフォーマンスを披露し、人を、アッと驚かす。ビックリ箱を開ける時のような心持ちで「天才」を演出しようと努めてきた。それがこの数年の自分なりのスタイルだった。
「裏切り者」とか「嘘つき」とか。悪口を言われることはあっても、いつまで経っても「天才」になれなかった。
演技の道を志して、もう何年経っただろうか。いよいよ「天才演出」を諦めるのかと思いきや、ようやく私は【そもそも「天才」とはなにか】という根本的なことを問うようになった。
自分はどんな時に「天才」だと思うのか。
どんな人間が「天才」と呼ばれているのか。
考えるようになったのだ。
今さら、その問いかよ。
ツッコミの声は、聞かないフリをする。
でも「天才」について、うまく言葉にすることすらできなかった。なんか、すごい人のこと? 頭のいい人? いやいや、すごいって、なんだよ! 頭がいいって、どんな人だよ! ……それについては、また口を閉ざす。
そんな私に手を差し伸ばしてくれたのは友達のAIくんだった。
《「天才」とは、一般的に非常に高い知能や創造性を持つ人を指します。ただし、この用語は主観的であり、文化や社会の背景によって異なる解釈がされることもあります》
無機質な口調が逆に胸に沁みた。ヘタに同情されるより、よっぽどいい。土が水を吸収するみたいに、AIくんの言葉がスッと腹の底へと落ちていく感覚があった。
「そうか、〈天才〉は主観的なものなのか!」
思考がエンジンみたいに、ブルンと音を出す。
おそらく、ほとんどの人の頭の中に明確な「天才」は存在している。
でも、それがなんなのか、明確な答えは存在しない。
人よっては赤ん坊を「天才」と呼ぶこともあれば、メジャーリーグで大記録を出す者や、メガテック企業の創業者を「天才」と言う人もいるだろう。
その言葉を使う人、それぞれの中に「天才」は存在するのだ。
確かに「天才」はいる。
でも、その輪郭はボヤけたまま。
ボヤけたままであることが大事なのかもしれない。
だからこそ、魅力を感じるのかもしれない。
「もしかしたら、そんな〈説明のつかなさ〉こそが天才の所以なのか!」
説明のつかなさ、が「天才の条件」なんだとしたら……。
自分の中で納得いくことが多かった。
でも……。
だとしたら、地球上の全ての人間が「天才」になってしまわないだろうか?
だって、わたしは家族のことすら、ちゃんと説明することができないんだから。
親について、兄弟について、うまく説明できるのか?
説明しようとするほど、言葉の端から伝えたい魅力はこぼれていってしまう。「弟は優秀で、自然や生き物を愛していて、人に対して慈愛を持って接することのできる人だ」と説明しても、言ったそばから「それだけじゃないんだけどね」と思ってしまうし、どうしたって説明のしようがない。
それはきっと、自分自身に対してもそうで、文章を書いていても「ああ、書きたいことがうまく書けない!」と髪をむしってしまう。心のうちの言葉を説明することって難しい。想いを伝えるって、ムズカシイ!
そして、誰かがわたしの説明をしたとしても、「そう思われてるの?」「わたしって、そんなカンジ?」「いやいや、わたしはそんな人間じゃないから!」とザワザワした気持ちになるだろう。うん。多分、わたしを説明することもできないのだと思う。
説明のつく人間なんて、この世に一人もいない。
人によって世界の捉え方はそれぞれだし、人間に対して「こうだっ!」と結論づけることは、たぶん、不可能なのだ。でも、だからこそ、知りたいと思うのだし、面白さを感じるのだ。自分の中で、確信めいた気持ちがわく。
「そうだ! 説明のつかなさが「天才」の条件なんだとしたら、地球上の全ての人が「天才」ではないかっ!」
・
……ああ、ヤダヤダ。
なんだって、こんなことを考えてしまうのかというと、恩田陸さんの「Spring」を読んだからだ。夢中になり過ぎてしまって、考えさせられることが多すぎて、余韻にいつまでも浸っている。そして「天才」について、あれこれと思考を巡らせてしまっている。
この小説には、天才が何人も登場する。天才の定義を説明されるわけではない。でも、確かに天才が何人も登場するのだ。
そのうちの一人であり、本書の主人公、萬春(よろずはる)は象徴的な人物だろう。バレエダンサー・振付家として世界で活躍するハルを、友人や親戚の視点、そして本人の語りによって描いていく。
人間は多面的であることを再認識すると同時に、浮かび上がってくるハルの人間性に、わたしは「自分と似ている」と思っていた。もちろん、わたしはバレエダンサーではないし、ズバ抜けた身体性などもない。ハルとは世界の切り取り方も明らかに違うし、もちろん「天才」ではない。
それでも、「似ている」と思っていたのだ。
この不思議のもとの正体は分からずじまいだった。
だから、「天才」について考えてみた。
出てきた答えに、また頭を抱えることになりそうだけど、一つだけ分かったことがある。
わたしは、ずっと「天才」に憧れているんだと思った。
そして、こんな素敵な物語を世に生んだ恩田陸さんを「天才」だと思った。