あの頃、ボクは引っ越しの準備に追われていた。契約更新を何度もしてきたマンションから、突然、立ち退き宣告を受けたのだ。

 

びっくりぎょうてん!

 

詳しい理由はよく分からない。管理会社が変わるとかなんとかで、半年後にはマンションの取り壊しが決まったらしい。それ以上のことはなにも教えてもらえず、とにかく「取り壊すから、引っ越してほしい!」というメッセージだけがガーンとボクの頭に飛んできた。正直、まったくもって納得いかない。

 

一体、どういうこと!

 

でも、察するに、その土地一体を丸ごと購入した者が現れたのだろう。だから目をニヤニヤさせた男たちが「引っ越しまでの間の家賃免除と、引っ越し資金も多めにご用意しますので」とウマイことを言ってきたのだ。鼻の奥がツンとするような、ものすごい臭気がした気がした。

 

ヤダヤダ、こわいこわい。

 

瞬間的に防衛本能を働かせたボクは、すぐさま同意書にサインした。「むしろ、こっちから出てってやる!」と言えたらよかったが、ボクはヘイコラしながら頭の中でソロバンを高速で弾いた。

 

数ヶ月分の家賃。敷金。引越し資金。諸々考えていくと、ここは心機一転、引っ越しするのもアリかもしれない! 去っていく男たちの背中を眺めながら、ボクは拳をかたく握った。

 

すぐさま物件情報アプリをインストールして、近場の物件を検索する。思った以上に、空き物件は多かった。気になるものにはハートマークをポチり。そして街に出た際は決まって不動産会社を見て回った。しかし……、

 

「引越しって、どうやってするんだっけ?」

 

もう何年も引越しをしてないボクは完全に引越しのやり方が分からなくなっていたのだ。まず、肝心の引越し先が見つからない。イヤ、物件はある。でも、条件にハマる物件が見つからないのだ。探せば探すほど欲望は湧いてくるし、考えれば考えるほど今住んでいる家の条件がベストに思えてしまう。

 

駅近物件を考えれば家賃は上がるし、部屋の広さを考えても家賃は上がる。風呂トイレは別がいいし、マンションでもアパートでも、できれば2階以上の家に住みたい。そして、日当たりも重要だ。これまで朝日と共に目覚める生活をしていたのだから、最低限、南向きは死守したい……。

 

自分の中に眠っていた贅沢根性にため息が出るほど、引越し作業は難航した。

 

でも、緊急事態宣言が発出され、世の中が大騒ぎしている最中に、家賃の心配もせずのんきに引越しのことを考えられるなんて、幸せなのかもしれない。ボクはテレビのニュースを眺めながら呟いた。

 

「がんばるか」

 

もちろん、考えるべきは引越しだけではなかった。決まっていた仕事も延期になり、向こう数ヶ月、仕事の予定もない。ちょうど事務所から独立したタイミングだったこともあり、正直、メンタルはキツかった。

 

でも目の前に現れた引越しのことを考えている時だけは、日常生活に戻ったような感覚があったのだ。本来、日常だった営みが非日常に思われる。なんだか不思議な感覚だ。

 

それからのボクは、家の片付けをするようになった。物件を見つけることは急務だが、どれだけ探したところで見つからないときは見つからない。そう割り切っていた。

 

午前中は大掃除。午後は物件探し。残りの時間を使ってオーディション情報を探したり、仕事の営業などに充てていた。当然、夜になったらバタンキュー。そんな生活サイクルだ。毎日が同じようで、でも、発見も多い日々だった。

 

こんな服があった。あの漫画が見つかった。昔書いたラブレターの下書きまで出てきたぞ! おいおいおい! なにが書かれているんだ!? 手紙を読みふける。つまらない。漫画の奥付けを確認してみる。面白い!

 

片付けをしているはずなのに、まるでタイムカプセルを開けてるかのような高揚感すらあった。

 

物件探しの方も毎日景色が違って見えた。お気に入り物件を見つけては、自転車をかっ飛ばす。いい運動だ。それに道に詳しくなっていった。こんなところに路地がある。マップに反映されていない道まであるぞ。よし、関係ないけどコッチの道を進んでみよう。お、この道に繋がるのか! この辺の家賃は高いんだろうなあ……。

 

ほんの少しかもしれないが、着実に前に進んでる実感を持てた。外を出歩く人が減り、世界が止まっているように見えたとしても、確かにボクは進んでいる。そう思えるだけで、ずいぶん心が穏やかになった。

 

 

 

 

そういえば、最近読んだ小説たちは「あの頃」を描いた作品が多かった。たまたまかもしれない。でも、それにしたって多いと思った。いや、小説だけでなく、ドラマや映画でも「あの頃」を描いた作品は増えた気がする。

 

きっと、それほどまでに「あの頃」は〈物語〉が生まれる時間だったのだろう。あの頃、ボクがのんきに引越しをしているときに。たくさんのドラマが起きていたのだ。

 

でも、どういうわけか、「あの頃」を描いた作品に触れると、ボクは後ろめたい気持ちになってしまう。それはたぶん、あの頃のボクが穏やかに過ごしていたからかもしれない。だって「あの頃」を描いた作品は痛みを伴う描写が多いから……。

 

だから、どこかの誰かが苦しんでいる時に、自分だけ平穏に過ごしていたことを「咎められてる」ような気持ちになってしまうのだ。日常が非日常になったり、平穏な日々を後ろめたいと思ったり。改めて振り返っても、ヘンテコリンな時間だった。

 

ボクが大好きな作家、森絵都さんの小説『獣の夜』も、あの頃の物語が詰まっていた。大好きすぎて感想なんて言えない。いや、言う。言いたい。叫びたい。

 

最高だった! ファンにはたまらない描写も多かった。だって、作品を飛び越えて色々な人物たちが出てくるんだから! イエーイ! エキサイティング! フッフー! って感じだ! 

 

そして、不思議なことだが、あの頃が舞台になっていても、読んでいて「後ろめたい」とは思わなかった。それが一番、アンビリーバブルだ! なんでかは分からない。きっと「好き」は、なんでも飛び越える力を持っているんだと思う!

 

ちなみにだが、「獣の夜」は7篇の作品集だ。だから全てが「あの頃」を舞台にしているわけではない。日常生活を描いたものから、ファンタジックなものまで。色とりどりの作品が詰まっている。どれも詳しく話したいけど、まっ、それは一緒にお茶でも飲みながらね!

 

最後に、特に好きだったセリフを紹介したい。

 

 

『正しいことは移り変わるけど、美しいものは変わらない』

 

 

お風呂に入っているみたいに、体からじわーっと疲れが取れていくような言葉だと思った。あの頃の自分を肯定してもらえたような気がした。

 

読書って、楽しいな!